国内小旅行記

真田氏のふるさとを訪ねて。淳二と行く爆笑信州旅行




2002年9月28日13時 上田市立博物館


いきなりだが、お宝その1

真田昌幸父ちゃんの鎧。本物だよ
佩楯(はいだて:足を守る部分)の六文銭がかっこいい。
そして注目してほしいのが手甲の六文銭。ここから淳二の必殺技が撃ちだされるのだ(ほんとか?)

そう、真田昌幸の鎧である。

そしてこの鎧で目に付くのが佩楯と手甲に打たれた六文銭。

淳二の着ている鎧のデザインはこれがモチーフなのだ。

つまり、手甲の六文銭から『表裏比興拳・六文銭気弾!』を撃ち出す、淳二の必殺技はこの鎧があったから生まれたってわけ。

「…すげぇ。こりゃぁあれだよ。オレのファンは必見だよ」

まぁ、お前のファンでなくても真田ファンにはお宝中のお宝だ。

こんなのが何気に置いてあるんだから、とんでもない博物館だ。

そして次なるお宝がこれ。

真田父子犬伏密談図。

直江状の挑発に乗って上杉征伐に向かっていた家康の軍勢には、実は真田昌幸、信之、幸村と父子が勢ぞろいで参加していた。

そして運命の7月21日。下野国犬伏にて石田三成の密使が昌幸の下に到着した。

要するに西軍に味方してくれ、と言われたわけだ。

ここで困ったのが弱小大名の真田家だ。

どっちかに味方したとして、もしも負けちゃったらお家断絶である。

そこで、彼らは非情な決断をした。

要するに昌幸と幸村は西軍に味方する。

信之はそのまま東軍に残る。

で、どっちが勝っても負けても、とりあえず真田の家名を絶やすことにはならないだろう、というわけ。

この絵は、その犬伏で父子三人が別離を決めたときの様子を描いたもので、とっても有名である。

弱小大名のサバイバル術ってのはこんな風に大変だったのね、って話。

これはそういう絵なのである。

間違っても辛気臭い顔で相談するおっちゃん二人とじいさんの絵ではないのだ。

じゃあ、次はこれを見ていただこう。

真田幸村さん。

「…だれ?」

幸村だが。

「……………おっさん」

失礼なやつめ。

「いや、だってなんつーか、イメージってものがこうぶち壊しになったというかなんと言うか…」

それを言ったら昌幸の絵なんぞほとんどしわくちゃのサルだぞ。(暴言)

「そうなの?」

まぁ、あれだ、この手の絵で現代人の我々が満足できるものなんて無いから、心配するな。

「う〜む…」

淳二が絵を見たまま固まっているので今度はこちらを見てもらおう。

真田幸村最期の手紙。

これは小山田文書と呼ばれている、多分幸村の手紙の中で一番有名なもの。

後半に出てくる、次の一文に注目。

「さだめなき浮世にて候へば、一日さきは知れざる事に候。我々事などは、浮世にあるものとはおぼしめし候まじく候」 (作者意訳:この不安定な世の中ですので、一日先のことも分かりません。だから我々のことはもうこの世にいるものとは思わないでください)

大坂夏の陣を前に、死を覚悟した幸村の気持ちが正直に打ち明けられているのだ。

「…そっか、遺言なわけだ」

うむ。貴重な資料だぞ。

この手紙を書いたあとの大坂夏の陣では、幸村率いる真田の“赤備え”は劣勢の大坂方にあって孤軍奮闘、“真田日本一の兵”の強さを世に知らしめたのだ。

「おおーっ、絵はしょぼいが、カッコいいぞ幸村」

ふむ、大坂の陣についての詳しいことなんかは、いろいろ小説も出ているから読んでみることをお勧めしよう。

特に私は司馬遼太郎大先生の「城塞」をお勧めしておくぞ。

「なるほど、今度輪に借りて読んでみよう、っと」

てなわけで上田城観光は終了。向かいにあったお土産屋さんを少しのぞいてから再びイストに乗り込む。

ちなみに、そのお土産屋さんの入口にはこんなものが…。

真田幸村さん。駅前の馬上像のレプリカ?

というわけで、上田城の駐車場を出発。

そういえば、曇っているけどこっちについてから雨が降ってない。

結局上田城観光中も大丈夫だったし、実は淳二って晴れ男?

「うにゅ、そうかもしんない」

では、今日一日その調子で頑張ってくれ。

で、今度向かうのは上田城からそう遠くないところにある芳泉寺だ。

「芳泉寺? そこってなんか名所なの?」

そうだ。ここには真田幸村のお兄さん、真田信之の正妻のお墓があるのだ。

さて、それではここでクエスチョン。

この真田信之の正妻って誰の娘でしょう?

「…?」

淳二はわからないらしい。

読者の皆さんも考えてみましょう。

ヒント:わざわざ私が見に行くんだから当然小説と関係がある人だ。


2002年9月28日13時50分 芳泉寺。

というわけで、早速正解VTRをどうぞ。

芳泉寺。結構新しくて綺麗なお寺である。
正面に見える扉、一番左に六文銭、その隣に葵の御紋が見えるのがわかるかな
これがそのお墓。
説明。

そう、正解は本多忠勝の娘、でした。

本多忠勝といえば小説をお読みのお方ならすでにお分かりでしょう。

名槍蜻蛉切を手に戦場を疾駆すること57回、ついに生涯無傷の勇将です。

で、その蜻蛉切は小説では本多美亜子の得物なのです。

では、その小松姫のエピソードが紹介されていたので、それもお見せしよう。

おてんば姫だったようです。

ではここで、もうちょっと詳しく小松姫のエピソードを紹介。

例の犬伏の別れのあと、西軍に味方することに決めた昌幸と幸村は上田城に帰る前に、信之の居城である沼田城へと立ち寄った。

「おーい、小松〜、父ちゃんが来たぞぉ。門を開けて孫の顔でも見せてくれ〜」

と、言ったかどうかは分からないが、西軍に付いた昌幸はあわよくば沼田城を奪ってしまうつもりだったのかも…しれない。

が、小松姫は完全武装で門の上に現れて、こういった。

「門を開けろですって? 殿(信之)が出陣している隙に、留守を狙って狼藉を働くやつなんて、このあたしが一人残らず討ち取って蜻蛉切の錆にしてやるわ!(作者大幅に意訳)」

で、この剣幕に昌幸と幸村は軍勢を率いてすごすごと引き返すほかなかった。

しかし、このあと小松は着物に着替えるとこっそりと昌幸と幸村が宿営していたお寺を訪ね、孫の顔をじいさま(昌幸)に見せてあげたのでした。

「はぁ〜、よか嫁じゃ。これで、信之も安心じゃのう…」

と、昌幸が思ったことでしょう、多分。

小松姫は信之の後顧の憂いをなからしめる良妻型の女傑だったわけです。

そんなわけで、小松姫と言えば、豪勇の本多忠勝の血を見事に受け継ぎ、実に凛々しく、気丈夫な性格の持ち主であった、と後の世にも伝えられたのです。

めでたしめでたし…。

「…なんか、この小松姫って美亜子ちゃんみたいだな」

おっ、いいところに気付いたな。

もちろん小松姫が美亜子のモデルだ。

「なんとっ!」

そしてその小松姫は真田幸村にとっては兄嫁、つまり義理の姉ってわけだ。

なんとなくお前を取り巻く女性陣のルーツが見えてきたろ?

「うにゅぅ、てことはオレが広奈ちゃんに頭が上がらないのは、真田家にとって、もともと主君筋だったのが武田家だったからで、美亜子ちゃんに振り回されているのは小松姫が兄嫁だったからってことか」

ピンポン大正解。良く出来ました。

「なんてこったい。オレの女性関係って400年前から仕組まれてたのかよ」

おっ、そんなことはないぞ、お前が誰とくっつくかはまだ未定だからな。せいぜい頑張れよ。

「…あのさ、だったら真田幸村って伊達政宗と直江兼続に関しても何か因縁があったりするの?」

いい質問だ。

そもそも真田幸村が大坂夏の陣で死んだあと、その息子や娘をかくまってくれたのが伊達政宗と片倉小十郎重綱(二代目小十郎)だ。

実は大坂夏の陣では、幸村率いる赤備えと伊達政宗&片倉重綱率いる騎馬鉄砲隊が戦っている。(道明寺遭遇戦)

が、意外なことに幸村はその戦いの後、こっそりと息子や娘を片倉重綱に送り届けたのだ。

ちなみにこのとき送られた娘(阿梅)は後に片倉重綱の正室となった。

で、息子(大八)は重綱の元でかくまわれ伊達家の家臣となったのだった。

というわけで、実は幸村の血統は伊達家で生き延びていたのである。

だから幸村にとっては伊達政宗って敵であり恩人ってわけだ。

「へぇ、しらんかった」

ついでに言えばむしろ片倉さんとの方が縁が深い。

だから、もしかして淳二×真理なんてカップリングがありえるかも(?)

「…真理先輩と? う〜む」

それから前回も話したが、真田幸村は父昌幸が上杉景勝と同盟を結んだ際に、人質として上杉家に送られているんだ。

だから少年時代を上杉家で過ごしていることになる。

その際に上杉家の執政だった直江兼続から軍略を教わった(と思う)

だから、直江は師匠みたいなもんだ。

「師匠ねぇ…、思ったんだけどさ、なんか他の4人と比べて真田幸村って立場弱くない?」

まぁ、言い方は悪いが真田家は弱小大名だったからなぁ。

真田三代はみな一代の英雄だったけど、いかんせん地盤が弱いから。

もともと武田信玄の部下だったわけだし、独立後は上杉、北条、徳川の大大名に囲まれてあっちへ付いたりこっちへ付いたりとサバイバル生活。

豊臣家に臣従してお家安泰と思ったら肝心の豊臣家は徳川に滅ぼされてしまう。

「…あんまりなり」

いやいや、そうとも言えない。

なにせ幸村は滅びようとする豊臣家にあって、孤軍奮闘の大活躍。

その辺も判官びいきの日本人から指示された理由って事だな。

「フォローになってるのかなってないのか…」

ま、いいじゃないの、真田幸村って有名だし、直江兼続なんて日本人のほとんどは知らんぞ。

「そだな。輪よりはまだマシって事か」

そういう事だ。私も頑張って直江をもっとメジャーにしよう、うむ。

さて、それとは別に前回の布石の解答をしておこう。

「前回の布石?」

なんだ、もう忘れたのか?

>こうして家康はめでたく将軍様になり、真田昌幸と幸村は九度山蟄居となってしまった。

>(本当は家康は二人を殺そうとしたんだけど、とある理由により助かった。詳しくは次回以降のお楽しみ)

と言っていたではないか。

「あ、そっか、関ヶ原で負けたのになんで助かったのか…」

そう、大体予想がつくと思うが、それは小松姫とその父の本多忠勝が家康に対して、真田昌幸と幸村の命乞いをしてくれたから、なのだ。

「小松姫と忠勝が?」

そっ、小松姫は忠勝の娘だけど、お嫁に来るときは“家康の養女”って形だったからね。

そういう姻戚関係があったことで信之が東軍に付いたわけだし、その信之が忠勝に父と弟の命を助けれくれるように頼んだ。

で、可愛い娘婿のために徳川四天王本多忠勝が一肌脱いでくれた、ってわけ。

狸オヤジの家康も忠勝の頼みなら、ってことで折れたわけだ。

う〜ん、さすが忠勝、やることがカッコいいぜ。

「にしても、今まで聞いた話を総括するに…、もしかして信之って奥さんが怖くて家康の味方したとか?」


……それは言っちゃいけない。


というわけで、よく分からない話をしているうちに芳泉寺見物終了。

続いて向かう先は池波正太郎真田太平記記念館。

真田太平記といえばいわゆる真田ものの歴史小説の中でも最もメジャーでかつ大長編作品である。

ちなみにNHKの大河ドラマにもなっている。

が、私はまだ読んでいない。

「なんで?」

こういうのは老後の楽しみにとっておくものだよ。

「良く分かんない理由だな」

いいのっ、図書館になかったから読めなかっただけなんだ。

…買うと高いし。

なので、見物したのはいいが、作品を知らないのでは楽しみも半減というものである。

結局展示を一通り見物し、倉の中にあったシアターで第一次上田城攻防戦の上映を見物し、そそくさと立ち去ったのである。

第一次上田城攻防戦については上田城での説明参照ね。

入口にあったプレート。ちなみに館内は撮影禁止でした。

さて、この時点で時刻は3時近い。

大方の博物館の類は4時か4時半には店じまいになってしまう。

そのため我々は急ぎ、真田町へとイストを走らせる事になる。

真田町で我々が見たものとはいったい何か?

次回を待て。

続きを読む

戻る