国内小旅行記

真田氏のふるさとを訪ねて。淳二と行く爆笑信州旅行




2002年9月28日11時ごろ


前回道を間違えて関越自動車道を直進するという大ボケを演じた我々だったが、現在その遅れを取り戻すべく上信越道をひた走っているところである。

そう言えばイストのインプレッションを全然やってなかったからここでやっておこう。

雨の高速を100キロ前後で走っているが、ほとんど不安を感じない。

マシンは安定しているし音も静か。

シートも座り心地は良く、長距離運転してもあまり疲れない感じ。

さらにCDだけでなくMDプレイヤーもついているのがうれしい。

(ま、その分レンタルの値段はヴィッツなどよりもちょこっと高い)

街乗りしてても快適で、運転しやすいし、ブレーキもちょうどいい。

つまり日常の足としても必要十分でロングドライブにも結構向いていると思う。

高速での追い越しでも加速がもたつかないのがいい感じである。

ただし、上り坂では結構失速する。

ちなみにマシンのデザイン的には私はヴィッツの方が好きだし、新しいデミオの方がもっといいと思う。

デザインの好みを上から並べたら、フィット、ヴィッツ、デミオ、イスト、マーチの順だろうか。

ま、これはあくまで私の主観である。

と・・・。

「兄ちゃん、なんか豪雨だよ。しかも濃霧で視界悪いよ」

前方を見ていた淳二が不安、というか呆れ顔で私の方を見てきた。

…別にこの天気の悪さは私のせいではないぞ(多分)。

と、空しき反論を試みたが、それよりも運転に集中する方が大事。

写真を見てもらえば分かるが、視界50mの濃霧、そして豪雨であった。

怖くて80キロくらいで走る。

助手席の淳二撮影。この悪天候。まぁ、いつものことである。

この恐怖のドライブでかなり気を張って走ったため、いきなり私は疲れてしまった。

そこで、上田の手前の佐久平パーキングエリアにてちょっと小休止することにした。

トイレを済ませお土産屋さんをぷらぷら見てまわる。

と、食堂発見。

私がふとある事を思案していると淳二登場。

「兄ちゃん、まさかここで昼御飯を済ませようとか考えてたりしたりなんかする?」

そのまさかだ。

「げげっ、なして? 上田で名物信州そばを食べる予定だったじゃん」

…そんな時間はない。

「なんとぉ!?」

考えてみれば当たり前である。

我々は予定より1時間遅れているのだ。

事前にリサーチして行く予定だった某名物蕎麦屋は昼間は行列が出来ることで有名らしい。

1時間前に着いていれば少々待っても食べようと思っていたが、もはやそんな猶予はないのである。

「うにゅぅ、…真田そば食いたかったなり」

落ち込む淳二に私は言った。

大丈夫だ。ここは信州。信州でそばを食えば信州そばだし、お前が食うんだから真田そばだ。

「…なんじゃそりゃ」

あきれる淳二に止めの一言。

わかったわかった。食べ終わったらソフトクリームもつけてやるから。

「…あまりうれしくないが、それにつられてしまうオレが悲しい」

商談(?)成立。

私は山菜そば、淳二は海老天そばを食し、デザートにはソフトクリームを頂いた。

意外にも非常においしいソフトクリームだった。

さすがに350円もするだけのことはある。

値段相応、なかなかにおいしかった。

食事して人心地ついた我々は再びイストを駆り上田へと向かった。


12時ごろ上田到着


高速道路を降りると我々はまず上田駅へと向かった。

道すがら目に付いたのがとにかくあちこちにある六文銭のマークであった。

信号機の下、町名が書いてある看板が軒並み六文銭マーク付きである。

さらにはあちこちの商店にも…。

間違いなく全国で一番六文銭密度(?)の高い街であるな…。

「すげぇや、お仲間がいっぱいって感じだ」

まぁ、お前の鎧はあちこち六文銭だらけだからな。

ほとんど歩く六文銭だ。

「…なんかうれしくない呼ばれようだな」

そんな上田市を走り抜けてとりあえず駅に到着。

駅前のロータリー広場のど真ん中にそれはあるのだ。

で、そのそばの道端にイストを停めると私は淳二にこう言った。

おい淳二、駐車違反になるのやだからお前乗ってろ。

「ええーっ」

と非難の声を上げる淳二を助手席に残して私は車外に出た。

そしてそれの写真をぱしぱし。

それ。

さて、それとは何かお分かりいただけただろう。

そう、真田幸村の馬上像である。

幸村といえばやっぱりこの鹿角の兜だ。

作中で淳二が装着しているのもこんな兜だと思ってくれい。

とりあえず写真を撮って満足したので近くのお土産屋さんを見物した後、ちょっと駅に入り、観光案内所で色々なパンフレットや地図をゲット。

ちなみにその観光案内所の看板にもやっぱり六文銭。さすがである。

そして待ちくたびれていた淳二の元へ戻った。

「遅いぃぃぃぃ」

まぁ気にするな。

それよりも今度は上田城だ。

「えっ、オレまだ見てないんだけど…」

んな時間はない。

「うそぉっ…」


12時半ごろ上田城到着


駅からすぐだった。

お城はちょっと小高いところにあり、確かに堅城っぽい。

早速駐車場に車を停めて徒歩で散策する。

まずは城門(写真は、本丸東虎口の南櫓、櫓門、北櫓である。隅櫓は県宝に指定されている(櫓門は復元されたもの))をくぐり城の中へ。

上田城三櫓。
とりあえず、この説明を読んでくださいませ。

城の中、そこは何というか、普通の公園だった。

真っ直ぐ歩いて行くと真田神社を発見。

真田神社の説明で、ある。
この六文銭が良いじゃないですか。

知将として名をはせた真田一族、特に幸村が知恵の神様として祭られているとのこと。

うちの淳二を見ているとまるで知将という気がしないが、将来に期待という事で…。

賽銭箱には奮発して100円投入。

どうぞ作者と淳二の頭が良くなりますように…。

「いいネタが浮かびますように…」

二人してお祈り。

途中社務所の看板の横にはこんなものが…。

真田忍軍養成学校?

「オレ、習ってみたいかも…」

心配するな。すでに真田忍法は何回か使ってるから。

てなわけで、真田神社の次は、さっきくぐった櫓へ。

中で一番の見ものだったのがこれ。

父昌幸、子幸村、孫大助の説明。小さくて見にくいが読んでおくように。
で、これがその三人でございます。
幸村さん。

さて、上田城といえば真田昌幸が二度にわたって徳川家康の軍勢を撃退した、上田合戦で有名である。

第一次上田合戦は天正十三年(1585年)のこと。

攻めてきたのは大久保忠世・忠教が率いる徳川軍七千以上、対する真田軍わずか二千。

だが、真田軍はまず小勢を城外に出して敵をおびき寄せ、敵が深追いしたところで巧みに配置した伏兵が徳川軍の側面から奇襲。

大混乱した徳川軍はばらばらに退却するが、逃げようにも城外を流れる神川で足止めされてしまう。

折からの雨で増水した神川と真田勢に挟まれた徳川軍は、多くが討たれ、あるいは溺死。

まさに惨敗であった。

「へぇ、真田って強いねぇ。こんとき、幸村も活躍したんでしょ?」

ほほう、いい質問だな。

ちなみにこの戦いのとき、真田家は上杉家と同盟を結んでいた。

で、幸村は上杉の人質になってたから上田にいなかった。

「なんと!」

まぁ、私の勝手な想像だが、直江兼続の元で軍略でも教わってたんじゃないかな。

とりあえず戦国大名家一正義にこだわる上杉家だからこのときもちゃんと援軍を出してるよ。

とはいえ、結局は昌幸は自力で勝ったんだけどね。

ま、このとき攻めて来た徳川軍は、どっちかというと二軍だし。

「二軍?」

そ、だって家康はいないし、徳川四天王も一人もいない。

はっきり言えば数は多いけど寄せ集めだったわけ。

「そ、そうなの? ずいぶんと辛らつだね〜」

いや、ほら、私が好きなのは本多忠勝はじめ徳川四天王とかだし、あとは有象無象〜。

「それでいいんかい…」

さて、では第二次上田合戦に話を移すぞ。

今度は関ヶ原の合戦直前の話だ。

ささっと背景を説明しておくぞ。

「おお−っ」

まず、我らが直江兼続が“直江状”で家康にけんかを売った。

で、怒った家康が軍勢を率いて上杉家討伐に向かう。

すると家康の留守にいまがちゃ〜んす、とばかりに西軍率いる石田三成が挙兵。(あらかじめ直江と共謀していたという説もある)

家康は上杉軍に背を向けて、軍勢を西に反転させた。

ここで、もし上杉軍が家康を追撃してたら歴史は変わってたのになぁ、ってのが直江ファンの正直な気持ち。

だけど、結局上杉軍は家康を追撃しなかった。(一番の理由は背後に伊達政宗がいたから)

というわけで、家康は安心して兵を二手に分けて関ヶ原へ向かった。

一方は福島正則ら元は豊臣恩顧の大名中心の軍勢で、こちら東海道を通った。

もう一方が家康の跡継ぎで二代将軍の秀忠率いる徳川本隊で、こちらは中山道ルート。

で、この中山道の通り道に真田昌幸と幸村が立てこもる上田城があったわけだ。

「ふむふむ」

秀忠軍は3万を越える超大軍である。

対する上田城の軍勢は多くてもこの十分の一程度だ。

まともに戦ったら勝ち目はない。

だけど、昌幸にはひとつ有利な点があった。

それは、“勝たなくてもいい”ってこと。

「勝たなくてもいいの? なんで?」

なぜなら昌幸と幸村にとっての究極の目的は西軍が勝つことだ。

ということは、上田城で秀忠軍を足止めし、3万の軍勢が関ヶ原に到着するのを阻止すれば、東軍、つまり家康軍は天下分け目の決戦において主力3万を失うことに等しいわけ。

それで西軍が勝てば昌幸にとっては目的達成、万々歳だ。

「あ、なるほど〜。メインはあくまで関ヶ原ってわけだ」

そういうこと。

だから、昌幸は知略の限りを尽くして秀忠を足止めしたわけ。

投降勧告した秀忠に対して、投降する気配を見せつつ時間を稼ぎ、結局降伏しなかったばかりか、あとで散々秀忠を馬鹿にしたわけだ。

これでキレた秀忠は上田城を力攻め。

だけど前と同じパターンで結局攻め落とせなかった。

そうしているうちに10日が過ぎ、天下分け目の合戦が間近になってしまった。

結局秀忠は上田城攻略を諦めてあわてて関ヶ原へと向かったが時すでに遅し。

哀れ東軍の主力3万は関ヶ原に間に合わなかったのだ。

これこそ、真田昌幸一世一代の功績ってわけだ。

「おおーっ、カッコいいぞ父ちゃん。父ちゃんのおかげで家康は負けちゃったわけだな」

うんにゃ、ご存知の通り、負けたのは西軍。

家康は3万の主力無しで勝っちゃったのだ。

「あびょ〜ん」

こうして家康はめでたく将軍様になり、真田昌幸と幸村は九度山蟄居となってしまった。

(本当は家康は二人を殺そうとしたんだけど、とある理由により助かった。詳しくは次回以降のお楽しみ)

ついでに言えば上杉家は120万石が30万石に減俸されてしまってた。

勝負には勝ったが試合に負けたって感じ。

直江も真田もこうして落ちぶれてしまったのでございます。

めでたくなし、めでたくなし。

「はぁ、なかなかドラマチックなストーリーがこの上田城で展開されてたんだねぇ」

と、我々は戦いの様子などを想像しつつ上田城を散策していたわけです。

そして城内にある上田市立博物館へ。

そこは入ってびっくり見てハッピーのお宝の山でございました。

詳しくは次回を待て。

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