陰陽五行戦記番外編

超解・直江兼続


はじめに


認めたくはないが、直江兼続はマイナーである。

武田信玄、真田幸村、伊達政宗らの日本人なら誰でも知ってるくらいのメジャー武将と比べても認知度は低い。

多分本多忠勝と同程度だろう。

これは憂慮すべき事態である。

陰陽五行戦記において直江輪を主役に据えている私としては、もうちょっと直江兼続について読者さんに知ってもらう必要があるだろうという使命感を感じずにはいられない。

そんなわけで、こんなものが出来上がってしまった。

これはある意味“小説の設定”に近い。

小難しい歴史の説明だと思わずに、小説のネタばらし、的に読んでいただくと良いと思う。

しかもこれを読むと、クイズの歴史問題が大体分かってしまうのである。

では、ごゆるりとお楽しみください。


◇雨続版「直江兼続伝記」◇


直江兼続は永禄三年(1560)、長尾政景の家臣樋口惣右衛門の嫡男として越後の国魚沼郡坂戸城下に生まれる。幼名は与六と言った。

当時の越後の国は、戦国最強の誉れ高い“上杉謙信”が治めていた。

兼続の父が仕えていた長尾政景は、上杉謙信の姉千桃院を妻とし、その嫡男こそ、のちに上杉謙信の跡を継ぎ、直江兼続の主君となる“上杉景勝”である。

兼続の生まれた年は“織田信長”が桶狭間の合戦で“今川義元”を討ち取り、その名を天下に示し始めた頃である。

また翌年の1561年は第四次川中島の合戦が起きている。

終生の宿敵であった“越後の龍”上杉謙信と“甲斐の虎”武田信玄の間で、最大の激戦が繰り広げられたのがこの戦いである。


(ちなみに作者は先日川中島へ行ってきた。ちらっと写真をお見せしよう)


武田信玄と上杉謙信一騎打ちの像。
上杉謙信と「毘」の旗。
「毘」の旗の解説。よく読んでおくように。
こちらは風林火山の旗。

第四次川中島の合戦から7年後。永禄11年(1568)、兼続は上杉景勝の母千桃院に、その美貌と才知を認められ景勝の近習に抜擢された。

いわゆるご学友である。

また、幼年時から際だった美貌だった兼続は成長するとともに、長身の美丈夫となった。


(作者「というわけで、男性陣の中でも輪が一番背が高く、美形というステータスを持つことになったわけ)


兼続は五つ年上の景勝によく仕え、この時期から二人は終生続く信頼関係を築いていた。

さて、上杉謙信は深く毘沙門天に帰依し、一生不犯の誓いを立てた。つまり生涯女性に触れず、当然実子はなかった。そこで、甥である景勝を養子とした。

兼続も景勝に従って、上杉謙信の元でその軍略を学んだのである。

謙信は一生不犯の誓いを実行する代わりに戦勝を願った。

そして自らの軍旗に「毘」の一字を用い、その軍勢は神懸かり的な強さを発揮した。

謙信の用兵は迅速で鋭く、戦国最強、まさに軍神の名に相応しいものであった。

また謙信は常に“正義”を旗印に義のない戦いは行わず、宿敵であった武田信玄や北条氏康らからも「義理堅い男」と絶賛されるほどの義将であった。

兼続は少年期をその上杉謙信の元で過ごし、幼いながらも自らの知謀を持って謙信の参謀を勤めた。


(作者「事実上、兼続は戦国最強の軍神の『後継者』ってわけ」)


そして謙信の元で学んだ政戦両略の知識は、天正六年(1578)、春日山城で謙信が死去すると、すぐに使われることになる。

謙信には景勝の他に、関東の北条氏康の七男氏秀を養子に迎え、景虎の名を授けていた。

当然謙信の死後、この2人の間で後継者争いが勃発した。

このとき兼続は一九歳の若年だったが、景勝の参謀として大いにその知謀を発揮し、後継者争いにおいて景勝軍を勝利に導く。

翌天正七年(1579)景勝軍の攻撃により、景虎は鮫ヶ尾城にて自刃。

これがいわゆる「御館の乱」である。

そしてこの勝利によって上杉家の後継は景勝となり、兼続は若干二十歳ながら景勝の右腕として上杉家を支えてゆくことになる。


(作者「若くして一国を担うようになった、っていうあたり、武田信玄とか伊達政宗とも共通してる。これも魅力!」)


この年の10月、景勝は武田信玄の五女菊姫と結婚。

ちなみに武田信玄は1573年に没していたが、その遺言では武田家に困ったことがあれば上杉謙信を頼るべし、とあった。

好敵手であった信玄と謙信だが、“死に際して息子を託す”ほどの信頼関係が築かれていたのかもしれない。

信玄の跡を継いだ勝頼はその遺言を守り上杉家と同盟する。その際に菊姫を景勝に嫁がせていたのである。


(作者「というわけで、直江から見た武田は決して宿敵ではなく、むしろ同盟関係にあったわけ」)



兼続が22歳の時、上杉家臣の直江信綱が春日山城で朋輩に斬り殺されるという事件が起きた。

景勝は名門である直江家が断絶してしまうことを惜しみ、信綱の後家お船の方と兼続を結婚させ、直江家を兼続に継がせたのである。

このときまで兼続は“樋口与六”と名乗っていたのだが、以後その名は“直江兼続”となる。


(作者「ちなみにここで殺された信綱さんは小説『炎の蜃気楼』で非常に有名。上杉景虎も同様」)



天正十年(1582)、“織田信長”が本能寺の変で“明智光秀”に討たれる。

このとき上杉家は信長の家臣“柴田勝家”が率いる北陸方面軍との戦いの渦中にあったが、本能寺の変をきっかけに停戦した。

勝家は信長の跡を継いだ“羽柴秀吉”と戦うも破れ(賤ヶ岳の合戦)、北の庄城で自刃。

その後勢力を伸ばし続けた秀吉に対して、兼続と景勝は同盟を決意。

天正十三年(1585)、越水城にて秀吉・石田三成と景勝・兼続の会見があった。

三成は兼続と同年で、このとき26歳。

このとき三成と兼続は意気投合し、友誼を結ぶこととなる。


(作者「直江輪と石田尚貴が仲良しなのはこれに由来」)


これで秀吉と上杉の同盟が成立したが、後に秀吉が関白に叙任されるなど、秀吉方の権力が増すとともに同盟から臣従へと変化する。

このころ兼続の元に一人の少年がいた。

信州上田城主真田昌幸の次男信繁(後の“真田幸村”)である。

真田家は弱小大名であったため、その領地は上杉・北条・徳川などにいいように振り回された。

真田昌幸は権謀術数を駆使し、真田の家名を守るためにこれら実力者のあっちについたり、こっちについたりとその態度を頻繁に変えた。

昌幸はそのため秀吉から「表裏比興の者」と言われたほどである。


(作者「淳二の必殺技の前フリはこれに由来」)


その昌幸の次男信繁は、そんな事情でしばらく上杉家の人質となっていたことがある。

兼続は信繁を弟のように可愛がった。


(作者「と、勝手に設定したが、これは史実かどうかは不明」)


後年の信繁こと“真田幸村”の機略の数々は、このとき兼続に学んだものも多かっただろう。

真田直江にはこのような奇縁がある。



翌天正十四年(1586)、兼続は景勝に従って上洛。

この年には秀吉は太政大臣となり豊臣姓を賜る。

秀吉は兼続のことを大いに気に入っていた。

天正十六年(1588)、秀吉は上奏し、上杉景勝を従三位参議兼中将に、直江兼続を従五位下山城守に任じた。

兼続は、直江山城守となったのである。

また、秀吉は兼続を評して「天下の仕置きが出来るのは小早川か直江」との言葉を残している。

小早川とは、三本の矢の教えで有名な毛利元就の三男、“小早川隆景”である。

秀吉は兼続をして天下を治めさせてみたいと評したのである。それほど兼続の手腕は優れていた。

だが、兼続は上洛したまま京都にずっと滞在していたわけではない。

天正十五年(1587)景勝に背いていた新発田城主、新発田重家を攻略し重家を自刃させ、越後国を平定している。

また天正十七年(1589)には佐渡ヶ島を攻略。

天正十八年(1590)には秀吉の命により北条征伐に出陣。数ヶ月にわたって各地の北条方の城を攻略している。

この北条征伐の際に有名なエピソードが二つある。

ひとつは北条氏がその居城である天下の堅城小田原城に拠って群議三昧の果てに何ら対抗策をうつことなく滅ぼされてしまったという、いわゆる「小田原評定」。

もうひとつが“伊達政宗”の小田原参陣である。

“伊達男”の語源ともなった政宗の、死に装束での参陣は兼続も目の当たりにした。

そしてこれは兼続にとって、好敵手伊達政宗との出会いでもあった。

独眼竜と恐れられた奥州の梟雄伊達政宗と、天下の名参謀直江兼続は関ヶ原の戦いに前後して、奥州を舞台に幾度も戦いを繰り広げるのである。

当初秀吉は、面従腹背で油断のならない政宗を牽制するため会津に文武両道、名将の誉れ高き蒲生氏郷を配した。

文禄四年(1595)氏郷が惜しまれつつ早折したため、慶長三年(1598)今度は上杉景勝が会津に転封された。

このとき兼続は会津百二十万石のうち米沢三十万石を秀吉に与えられた。

この三十万石という領地は陪臣の身で異例中の異例の出来事である。

なにしろこの時期、兼続よりも多い領地をもらっていた大名は10人しかいないのだ。

徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、前田利家、宇喜多秀家、伊達政宗、島津忠恒、佐竹義宣、小早川秀秋、鍋島直茂の10人である。

一説にはこれは景勝・兼続主従の仲を引き裂く離間の計であったとも言われているが、結局この主従の信頼関係は終生崩れることがなかった。

あるいは“主従が逆であれば天下を取った”とも言われるこの二人であるが、兼続はあくまでも景勝のナンバー2に徹したのである。


(作者「これも魅力! 三国志の諸葛孔明や新撰組の土方歳三とも共通するかっこよさである」)


同年(1598)八月、太閤秀吉が死去するといよいよ徳川家康が天下取りへと動き出した。

秀吉の後継秀頼を奉ずる石田三成は、家康の野望を阻止すべく挙兵計画を進めた。

三成と友誼のあった兼続は、三成と三成の軍師であった“島左近”らと謀り、家康を挟撃する作戦を立てた。

後に家康は上杉家に対して数々の言いがかりをつけてきた。

もちろん、それは口実である。自分に服従しろと言うことだ。

実際、すでに前田利家の後を継いだ前田利長はこの家康の無理難題に押し切られる形で人質を差しだし、幕下に組み入れられてしまっていた。

だが、兼続は違った。

軍神上杉謙信公以来、上杉家は武門の名家としての誇りを失ってはいない。

家康の詰問に対して、兼続は痛烈な返書をしたためた。

これが天下の名文とされる“直江状”である。


(作者「これこそ、兼続一世一代の名場面! 孔明先生の『出師の表』に匹敵するね!」)


この中で兼続は家康の突きつけた詰問に対し痛烈に反論し、逆に家康を挑発している。

“根拠のない噂に惑わされて上杉家を疑うなら一戦も辞さない”というのである。

すでに事実上の天下人となっていた家康相手に、これほどの啖呵をきったのはあとにも先にも兼続だけである。

慶長五年(1600)六月、これを受けて家康は上杉討伐の軍を起こし、諸大名の軍団とともに会津に向かった。

七月、家康の留守を狙って石田三成が挙兵。

三成の盟友大谷吉継や毛利輝元、宇喜多秀家、小西行長、島津義弘などが西軍の主力となった。

家康は会津を前にしてこの報を受け、軍勢を反転させた。

会津の上杉軍はすでに家康の軍勢に備えて布陣していたが、家康反転の情報を得ても、その軍勢を追撃しなかった。

あるいはここで上杉軍が「毘」の旗をなびかせ、家康の後背を突いていたら関ヶ原の合戦以前に家康は敗北していたかもしれない。

だが、現実には上杉軍は追撃をしていない。

それというのも上杉家には、謙信公以来“正義”にこだわる家風があったのである。

反転した敵の背後を討つのは義に反する。

景勝の一言で兼続は追撃を断念せざるを得なかったのである。


(作者「いわゆる日本版『宋襄の仁』」)


だが戦略的に見て家康を全軍で追撃した場合、空になった会津は伊達政宗の軍勢によって蹂躙されていただろう。

政宗はこの時点で上杉軍の留守を虎視眈々と狙っていたのである。

そこで、兼続は追撃を断念すると即座にその軍勢を北方に転じた。

景勝・兼続ともにこの戦は長期にわたると考えていた。

そのためかつての旧領である越後を手中にすべく、伊達政宗を牽制しつつ最上義光を攻めたのである。

九月八日、米沢を発した直江勢は畑谷城を陥落させ、続いて長谷堂城を包囲するが戦線は膠着。

この間に西軍は、関ヶ原にてわずか一日で破れてしまう。

兼続の予想は外れた。

家康が勝った以上、戦いを続けても無意味である。

そのため兼続は全軍に退却を命じた。

しかし、敵中深く進軍した状態からの撤退は非常な困難が予想された。

敗走する軍勢はもはや戦力ではない。我先にと逃げだしパニックに陥ってしまう。

それをまとめ、整然と撤退させることは至難の業である。

だが、ここに兼続の真価がいかんなく発揮された。

兼続は自らしんがり(最後尾)に残り、最上軍の追撃を防いだのである。

まず諸将に命じて撤退用の道路を緊急に整備させ、自らは鉄砲隊を効果的に布陣させ最上軍の追撃に対し痛烈な反撃をした。

最上軍がひるむと、今度は逆に討ってかかった。

このとき兼続の元で獅子奮迅の活躍をしたのが、豪傑・傾奇者として名高い前田慶次である。

追撃というのは浮き足だった敵に対して行ってこそ効果的である。

だが、兼続の軍勢は逆に追撃軍を粉砕するほどに強かった。

結局最上軍の追撃は及ばず、兼続の軍勢はほとんど無傷のまま米沢に帰還することに成功する。

このときの退却ぶりを伝え聞いた大名達は「さすがは名将直江山城守」と感心したという。

特に実際に戦っていた最上側の評価は高かった。

「最上記」には“直江は古今無双の兵(つわもの)なり”、とある。


(作者「三国志だったら孔明&趙雲の退却戦に匹敵するかっこよさだ!」)


十月、景勝と兼続は家康との和議を決定する。

結局上杉家の領地は百二十万石から三十万石に減らされた。

その三十万石というのが、兼続の与えられていた米沢三十万石である。

主君景勝は陪臣の領地に転封されたわけだ。

それからが兼続の手腕の見せ所であった。

家臣はそのままだが領地は四分の一である。

兼続は米沢を富ませ、国を支えるために尽力していく。

「四季農戒書」と名付けた農業指導書を執筆し、領地に整備した。

産業を興し、町作りをし、大減封に不平を漏らす家臣を統率した。

兼続の卓越した政治能力と指導力は遺憾なく発揮された。


(作者「ちなみにこのころ兼続は本多正信の息子を養子に迎えている。直江は本多(忠勝じゃないけど)とも一応関係があるのだ」)


また、慶長十二年(1607)には京都要法寺の活字で印刷させた“直江版文選”として有名な「文選」三十一冊を刊行。

兼続はかつて朝鮮出兵の際は、戦火に失われようとしていた漢籍を多数日本に持ち帰ったほどに、書物を重要視していた。


(作者「輪くんの読書好きはこの辺から」)



慶長十九年(1614)大坂冬の陣が勃発。兼続と景勝は、家康の命により大坂城を攻めるため米沢より出陣。

幕府軍にはかつての宿敵である伊達政宗もいた。

また、このときの大坂方にはかつて兼続の元にいた“真田幸村”がいた。

幸村は城の南に展開する幕府軍を迎え撃つべく、三日月型の出丸“真田丸”を築き奮戦。


(作者「無論淳二のメインウェポンはここから名前を取ってます」)


一旦は停戦するものの、翌元和元年(1615)大坂夏の陣が再び勃発すると、真田幸村は寡兵を持って家康の本陣を突き、家康を三度も敗走させた。

だが、衆寡敵せず、最後に幸村は討たれ、“真田日本一の兵”の名を後世に残すことになる。


(作者「淳二の変身のセリフはここから」)



こうして豊臣家は亡んだが、兼続はこのときすでに戦よりも学問を重んじていた。

江戸幕府は安定期に入っており、もはや戦は過去のものとなっている。

兼続は自分の後継者を育成することに情熱を燃やした。

元和四年(1618)には臨済宗禅林寺を米沢に創立し、この禅林寺に書物をそろえ米沢文庫と称し、藩士の学問の場としたのである。

兼続は元和五年(1619)十二月に江戸鱗屋敷で死去。

下級武士の家に生まれ、その才知で上杉家の家宰となり、全知全能を景勝のために尽くした一生。

その生き様は自らが兜の前立てにした“愛”の一字に全く恥じることのない、誇りに満ちたものであった。


(作者「言うまでもないが、兼続が愛の前立ての兜を使っていたのは史実だよ!」)


以上、簡単ではあるが直江兼続の生涯を伝記風にしたためてみました。

これを機に、直江兼続について書かれた歴史小説をお読みになることを強くお勧めします。

そうすれば、ますます輪君のファンが増えてくれることでしょう(…多分)

では、長文にお付き合いいただき感謝。

(あと、歴史問題のヒントが多いのでクイズに再挑戦してはいかが?)


ここまでの記事は2002年10月10日に更新したものです。


2007年4月28日追記。
大ニュース!2009年のNHK大河ドラマの主役が直江兼続に決定!
これで兼続は一気に国民的な知名度を獲得できそうです。本懐であります!

兼続に興味をもたれた方は私が2004年の米沢上杉祭りを見に行ったときのレポート、 愛野郎の愛の旅。米沢上杉まつりもご覧ください。
あの愛の兜もちょろっと載せてますぞ。


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