〜大長編オリジナル日本史ファンタジー大河ドラマ小説〜

陰陽五行戦記

第一章 ◇平安編◇

第三十二話「平安京の入り口で、愛を叫ぶ」





◇2月15日16時半 安倍晴明邸宅『一条屋敷』◇


…時間は少しだけ戻る。


「じゃ、わたしは如意珠を持ってきます…けど、その…」

だんだん声が小さくなっていき、ちらっと輪に視線を送る乙姫。

(あ〜あ、輪ってあそこまでされても分かんないわけ? どこまで鈍いんだか)

「おっ、そうだ輪、乙姫ちゃん1人じゃ危なくないか? 誰か護衛がいると思うぞ」

すかさず淳二が救いの手を差し伸べた。

(…こういうところは淳二のやつ、さすがに場の空気を読むのがうまいわね)

「ふむ、そうだな、誰が…」

言いながら全員の顔を見回す。

(馬鹿、あんたに決まってるでしょ)

「…よし、俺が行こう」

輪の言葉に、心配そうだった乙姫の顔が明るくなった。

嬉しくてたまらない様子。


それを見て、美亜子の心の奥底でちくりと痛みが走った。

(…やっぱりあの子、似ているんだわ)

「ありがとうございます、輪さん」

乙姫は頬を赤く染めながら、ぺこりとお辞儀をした。 周りの人間にも、いかに輪のことが好きなのか、とってもよく伝わってくる。

輪はまるで兄のように乙姫を慈しむ眼で見ている。

そのまなざしは美亜子が良く知るところだった。

「じゃあ、行こうか」

「はいっ」

(まるで綾瀬と話しているみたいじゃないの…)

そのやりとりは、誰にも気取られぬよう鍵をかけていた美亜子の気持ちを、一番弱いところを刺すのだ。

(…でも、あの子は綾瀬じゃないのよ)

2体の式神にそれぞれ抱えられ、輪と乙姫が飛び立つのを、美亜子はじっと見ていた。

「お気をつけて〜」

美亜子の隣では、ぱたぱたと白い布を振って摩訶那がいつまでも空を見つめている。

摩訶那のような純粋無垢な気持ちには、とてもなれそうになかった。

多分自分は怖い顔をしているんだろうな、と心のどこかで自覚していた。

乙姫はいい子だ。素直でまっすぐで、輪のことが好きで好きでたまらない、その気持ちを隠すことなくストレートにぶつけてくる。

自分には出来ないことだ。

綾瀬に出来て、自分に出来ないこと。

乙姫に出来て、自分に出来ないこと。

将門との戦いのあと、気付いてしまった。綾瀬のいない世界では、もしかしたら輪を好きになってもいいのかもしれない。

一旦生まれてしまったその気持ちは、じわじわと美亜子の心を覆っていく。

いつからだろう、誰の目にも触れさせずにいたこの想いが形を変えてしまっていたのは…。

だけど、認めたくはなかった。

輪は綾瀬が好きで、綾瀬は輪が好きで、そこに割り込むことは出来なくて。

輪を好きになっても、けして勝ち目のない戦いが見えていて、負けるのが怖くて。

“武”に関しては誰にも負けたことのない自分。

負けるのが何よりも怖い自分。

臆病な自分。

綾瀬にだけは、絶対に勝てないことを自覚して、勝負から逃げていた。

だって綾瀬は、自分にとっても大切な幼なじみで、妹のような存在で、3人の関係を壊すことは出来なくて…。

でも、この世界に綾瀬はいない。

その事実が、いくら蓋をしてももたげてくる悲しいほどの打算が、美亜子の心を苛むのだ。

抑圧してきた気持ちが、押さえ込んでも溢れてくるのだ。

誰よりも、輪のことを知っている。輪のことを信じている。輪と一緒にいた時間は、綾瀬よりも多いのだ。

なのに、ここに綾瀬がいない。いないからこそ、輪がほかの誰かに心惹かれる事を許せない。

綾瀬じゃない誰かに輪を取られるくらいなら、いっそ…。



「美亜子ちゃん、輪を行かせてよかったの? 何か言いたい事あったんじゃないの?」

唐突に、淳二に声を掛けられて、美亜子は思わず仰け反りそうになった。

淳二は妙に鋭い。

いつもはとぼけた顔で、冗談ばかり言うくせに。

なんて応えてやろうか、と淳二の顔を見た美亜子はまたも小さく驚いた。

意外なことに、淳二の顔は真剣だったからだ。

「…別に、何もないわ」

内心の動揺を悟られぬよう、不機嫌さをコーティングしてそう応える。

「そっか。でもなんかさ、美亜子ちゃん寂しそうに見えたから」

「なによそれ」

自然、顔が険しくなる。

寂しい?

寂しそうな顔をしていたの? このあたしが。

「冗談でしょ?」

だけど淳二はそれには答えず、全然違う事を言った。

「ねぇ美亜子ちゃん、やっぱりさ、オレ達が戦うのは現代に戻るためだよね? だから、今は余計な心配しないで、魔王を倒すことに集中しよう。美亜子ちゃんの悩みもさ、現代に戻れば解消するでしょ」

「現代に戻れば…?」

戻れば、当然綾瀬がいる。

きっと輪の帰りを待っているはずの子が。

そしたら自分は、またこの気持ちに蓋をしてしまいこめばいいのだ。

いつからか、形を変えていた想いを。

やっぱり、それが一番いい。認めるのは癪だけど、それが一番いいに決まっている。

そう考えると自然と自嘲的な笑みが漏れてきた。

なんとまぁ、臆病なんだろう。天下無敵の美亜子さんが、戦いもせずに敵前逃亡だ。

くすっと笑うと美亜子は改めて淳二に向き直った。

「あたしとしたことが、決戦を前にしてちょっとナーバスになってたみたいね。でも、大丈夫よ。明日はあたしが魔王を仕留めて見せるから」

そう、あれこれ考えてもしょうがない。

ハッピーエンドはみんなで現代に戻ること。

綾瀬の前に、ちゃんと輪を送り届けてあげること。

そのためにも、あたしは輪を守ってあげるのだ。

「おっ、それでこそ美亜子ちゃん」

にかっと笑顔を返して、淳二がそう言う。

だけど、その笑いの陰に、淳二の本質が見えた気がした。

「…輪もさ、いずれは乙姫ちゃんと別れる事になるって分かってる。だから、その分優しくしてあげてるんだと思うよ。それが輪のいいところでもあり、逆に残酷なところでもあるわけだけど」

ああ、そうか、淳二はそう考えていたんだ。

あたしが自分の気持ちしか考えられないのに、淳二はみんなの事をしっかり見ている。

悔しいけど、たいしたヤツだわ。

「あんたって、実は結構見るべき所は見てるのね」

「そうそう。だから美亜子ちゃんが輪を乙姫ちゃんに取られて面白くないのも分かる」

「なっ!?」

淳二はいきなり直球をど真ん中に投げ込んできた。

不意をつかれ顔がこわばり、頬が熱くなる。

「やっぱ図星だった?」

「全然っ。…これ以上アホなこと言うと、殴るわよ」

そう言うと美亜子はぷいと顔を背け、屋敷に向かってすたすたと歩き出した。

ふと空を見ると、夕暮れの日の光が目にまぶしかった。

見渡せばいつの間にやら庭には誰もいなかった。広奈も春樹も摩訶那も屋敷に戻っていたらしい。

(…あーもう、最悪だわ)

淳二相手になんでこんなに狼狽してしまったんだろう。

自然なウェーブのかかった髪をかき上げ、嘆息していると、そこに淳二がさらに爆弾を投げ込んできた。

「美亜子ちゃんの考えてること、大体分かるよ。…いつも見てるからね」


美亜子の足が止まった。


いつも見てる?

なにそれ、どういう意味?

美亜子が振り向くと、淳二は至極まじめな表情でもう一言付け足した。

「…まぁ、なんというか、特にそのおムネを」

………。


「参拾八式『十六夜花吹雪!!』

すぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱんぱん!!!!

「ぐぇぇぇぇぇぇぇぇっ…」


断末魔の叫びを上げて撃沈する淳二を見やりながら、美亜子はため息を漏らした。

(参ったわ…、こいつもしかしたら全部見抜いているのかもしれない…)



◇真田淳二の場合◇


一歩下がったところにいる分、淳二には輪と美亜子の関係が良く見えていたともいえる。

良くも悪くも、淳二の居場所は一歩後ろ。

だから、なんだかんだ言っても美亜子の視線が輪を追っていることも、輪がそんな美亜子の気持ちに全く気付いていないことも良く分かっていた。

そんな淳二だが、やっぱり美亜子に特別な感情を抱いていることを否定できない。

強気な行動の中にふと見え隠れする、無防備な表情が淳二を惹きつけてやまないのだ。

綺麗な子だと思う。

積み上げたプライドも、最強という称号も、美亜子を美しく飾り立てていると思う。

それに、自分なら結構うまく美亜子を掌の上で転がせるだろうな、という自負もある。

だけど、だからと言って美亜子に惚れている事を表に出す事はしていない。

美亜子の事を好きだけれども、美亜子は輪を好きで、輪は多分美亜子の事を幼なじみ兼ライバルとしてしか見れていない。

恋愛って、なかなか思うように行かないものだ。

特に、淳二はみんなの和を大切にする性格だ。逆にそれが口実になってしまい、美亜子に対して積極的なアプローチをしにくい。

神風攻撃して玉砕しては元も子もないし、みんなの関係もかえってギクシャクすることになるだろう。

それに、どうせなら美亜子には自分に惚れてもらって、それからアタックする。

それこそ、必勝の策である。

大事なのはそこに至るまで決して焦らないこと。

冷静に分析すれば、輪と美亜子がくっ付くことはあんまり考えられない。

だから、時間をかけて、じっくりと美亜子の中で自分の存在を大きくしていけばいいのだ。

だけど、ついつい今回は美亜子の寂しげな表情につられて、ぽろっと本心を漏らしかけてしまった。

危ない危ない。

ごまかす為とはいえ、美亜子のスリッパをしこたま喰らう様な、妙なオチの付け方をしてしまったし。

まぁ、今後は気をつけるとしよう。


…なんてことを、淳二は一条屋敷の庭に突っ伏しながら考えていた。

いかにスリッパとはいえ、美亜子の手にあるそれは立派な凶器だ。

敢え無くKOされてしまったが、それを恥とは思うまい。

「…よっこいしょっ」

起き上がると、美亜子の姿もなく、すでに太陽は西に沈みつつあった。

もうすぐ夜が来る。いわゆる決戦前夜というやつだ。

(決戦前夜か…)

これがその辺のロールプレイングゲームなら、主人公とヒロインが結ばれる絶好の機会なのだが…。

(まぁ、オレの場合はスリッパを喰らうのがお似合いってことか)

普段のキャラクターって実は結構重要なんだな、と思う淳二であった。



◇伊達春樹の場合◇


唐突だが、春樹は広奈と2人きりだった。

輪は乙姫と一緒、そして美亜子は淳二と一緒、それ以外の皆さんは一足先に鞍馬山、摩訶那はなにやらお掃除中。

もしかすると、こんな機会初めてかもしれない。

この時代に来てから…、いや、そもそも広奈と同じクラスになって以来の、これは初めての出来事だ。

邪魔する人もいない、明日の決戦を前に広奈と2人だけで話が出来る、これは最初で最後の機会かもしれないのだ。

千載一遇のチャンスだ。

そう思うと、妙にドキドキした。

今、この場(一条屋敷の客間)には他に誰も…

ちろちろ。

誰も……

「…ふにゅ?」

誰も、いない……?

「しゃー」

「ふにゅふにゅ」

ちろちろ〜♪

「ふにゅ〜」

こくこく。

「まぁ、小摩訶那さんと小十郎さん、どんなお話をしていらしたの?」

(はうっ…)

そうだった。春樹と広奈は小動物(?)をそれぞれ飼っているのだった。

しかも、なにやら二人(?)の間でコミュニケーションが成立していたりするし…。

ひとしきり脱力してから、春樹は力なく笑い、広奈様を見た。

目が合った。

もう、広奈様の期待されていることが丸分かりで伝わってきたので、春樹は従順にそれを実行した。

「小十郎、どんな話をしたの?」

(うん、さっきは脅かしてごめんなさい、って謝ったの。でね、ボクのこと許してくれるって。いい子だね、小摩訶那って。あのね、ボクとお友達になったんだよ)

「そうなんだ、良かったね」

ちろちろ〜♪

それから広奈に向き直り、そのまま通訳。

「さっき脅かした事を謝ったら許してくれたそうです。小摩訶那はいい子だって。あと、友達になったそうです」

「まぁ、素敵」

うっとりと微笑む広奈様。

その笑顔を見るだけで、春樹は幸せだった。

つられてこちらも笑顔になる。

明日には命がけの戦いが待っているとは思えない、そんな穏やかな空間。

春樹は広奈の持つ、この独特の空気が好きだった。

自分が周りに流されやすいだけに、どこまでもマイペースを貫ける広奈にあこがれるのだ。

同じ空気を共有しているだけで、心が安らぎ、その笑顔に癒される。

だから春樹は、この人の為なら戦える、と思うのだ。

この人の為に強くなりたい、と。

この人の笑顔を守るためなら僕は…


…なんて事を、心の中で恥ずかしげもなく呟いていると、突然小十郎の思念が飛んできた。

(ご主人様、ボクがいると邪魔だよね、ちょっと離れてるね…)

「えっ、小十郎?」

春樹が狼狽していると、小十郎はするすると九頭竜の剣から離れ、床に降りた。

「しゃー」

「ふにゅ?」

ちろちろちろ。

「ふにゅ〜」

なにやらまたしても小摩訶那と意思の疎通を行ったらしい。

ぱたぱたぱた。

「あら?」

小摩訶那が広奈様の肩から飛び立った。

そして小十郎のすぐ傍に舞い降りた。

「ふにゅふにゅ」

ちろ〜。

「ふにゅ〜」

小摩訶那はその羽の先で小十郎を慰めるように、いい子いい子しているではないか。

こくこく。

頭を撫でられ、小十郎は何度か頷いている。

「ふにゅふにゅ」

ぱたぱたぱた。

「しゃー」

くねくねくね。

そして、二人(?)して別室へ行ってしまった。

部屋を去り際、一度だけ小十郎が振り向いたが、その目はとっても寂しそうに見えた。

というか、一体、どんな会話が繰り広げられたのだろう…。

その様子を半ば固まって凝視していた春樹だったが、しばらくして我に返った。

そうだ、今度こそ二人きりだ。

何か、何か言わないと…。

んで、広奈様を見た春樹だったが、その広奈様、小十郎と小摩訶那が去った方向をじーっと見つめていらっしゃる。

そして、一体何が起きたのか、責任ある説明を春樹に求める視線を送る。

「…えと、もしかして、僕に気を遣ったのかも」

「…?」

どういうことかしら? ってな感じに広奈様の首が右に3度ほど傾いた。

小首を傾げる広奈様のなんと可憐なことだろう。

夕暮れと共に、暗くなりつつあるその部屋の中で、広奈の周りだけが春樹にはまぶしかった。

だから、広奈に見とれながらも、ちゃんと話を切り出せたとき、春樹は自分に拍手を送ったものである。

「…明日の話をしようと思って」

「はい」

それだけで広奈様は、神妙な顔で春樹の話を聞く体勢に入ってくれた。

「明日は、頑張ります。今まで僕はみんなの足を引っ張ってばかりだった気がするから、明日はせめて誰にも迷惑をかけないよう戦います。そして、五稜郭で魔王と戦ったとき、僕は怖くて何も出来なかったから…、今度は…」

「…春樹さん」

「あの、元はといえば五稜郭で、僕が魔王の持っていたあの鏡を撃てなかったことが原因で、この時代に飛ばされたわけで、だから…、だから明日はちゃんと…」

(なるほど、その事をずっと気に病んでいらしたのね)

春樹は平安時代に来てしまった原因の多くが自分にあると“思い込んで”いるらしい。

だけどそれを言うなら、五稜郭で魔王とまともに戦うことも出来なかった自分たち全員の責任だ。

それにその前に言った言葉、『みんなの足を引っ張ってばかり?』『誰にも迷惑をかけないように?』それは自分に対する過小評価を通り越して、自虐的ですらある。

純朴で誠実で善良で、思い込みが激しく、どこまでも自分に厳しい。

それゆえ過去の失敗や自分の力不足をいつまでも思い悩み、自らを傷つけてきた。

だけど、その分春樹は強くなっている。

自分が傷ついた分だけ、成長し、戦場に慣れ、銃を撃つことに慣れ、そしてみんなを守れるくらいに強くなろうとしているのだ。

まさにいばらの道だ。

(…もしかしたら、春樹さんはわたくしたちの誰よりも強くなるかもしれない)

そんな予感。

いや、おそらくそれは確信。

でも、もしもそうなったとして、その時春樹はどうなってしまうのだろう。

強くなった代償として、自分の心を閉ざしてしまわないだろうか。いばらの道を抜けたとき、その心が力尽きてしまわないだろうか。

(むしろ、そうならないように、わたくしたちが春樹さんを支えてあげるべきですわね)

自分のすべきことが見えてきた。

春樹の心のケア。そして戦場では春樹に活躍の場を与え、功を立てさせてやるのだ。

良源の前で酒呑童子を仕留めてしまった、あの失敗は繰り返すまい。

そんなわけで、広奈様は春樹に対して最も効果的な言葉を返すことが出来た。

「春樹さん、明日は頼りにしていますね。もしもわたくしが危険な目に遭ったら、どうか守ってください」

「は、はいっ!」

誰かに頼りにされること、誰かを守ってあげること、それが春樹にとって一番嬉しいこと。

春樹は顔を紅潮させ、力いっぱい答えたのだった。

一番好きな人から、一番聞きたかった言葉が聞けた。

春樹の頭の中をさっきの広奈様の言葉がいつまでもリフレイン。

頼りにしていますね
頼りにしていますね
頼りにしていますね
頼りにしていますね
頼りにしていますね

守ってください
守ってください
守ってください
守ってください
守ってください

「絶対に守りますっ!!!!」

春樹の心が真っ赤に燃え、広奈を守ると轟き叫ぶ。

あまりに分かりやすいその反応に、しかし広奈はまったく別のことを考えていた。

(そう、春樹さんには戦う理由が必要なのですわね。出来れば戦いたくない、誰も傷つけたくないと、その銃を放つ瞬間にも、その意味と意義を自分に問いかけている方ですから…)

そして、口に出してはこんなことを言った。

「ありがとう春樹さん。ですが、春樹さんが本当に守りたいものは、わたくし以外にもいるはずですわ。もしかすると、気付いていないかもしれませんが…」

唐突にそんなことを言われて、春樹はさっきまでの勢いはどこへやら。

「えっ?」

「いえ、でもきっと春樹さんは分かりかけているように見えます。何のために戦うのか。何故強くなければいけないのか」

そう言って広奈様はたおやかに微笑んだ。

春樹がまったくついて来れないが、彼女一流のマイペースで会話を進めている辺りが、広奈様の真骨頂。

「あ、あの…?」

狼狽する春樹を完璧に無視して、広奈様は不意にすっくと立ち上がった。

「春樹さん、あなたに歌を贈ります。どうか元気が出るように。そして迷いが消えるように」

「へっ?」

またしても、春樹はあっけにとられてしまった。

唐突に見えるこの行動。実のところ広奈様は自分でも気付いていなかったが、かなり欲求不満に近い状態だったのだ。

いつもなら毎日のように歌い、ピアノやヴァイオリンを弾いて音楽の世界にどっぷりとつかっていたのに、もう何日もそれから遠ざかっていた。

だから、春樹のために、と言うのは名目であり、要は歌いたいから歌うのだ。

そして、春樹の返事も聞かずに、滔々とアカペラのまま美声をつむぐ。


O Freunde, nicht diese Tone !
(おお、友よそんな調べでは駄目なのだ!)

sondern last uns angenehmere anstimmen, und freudenvollere.
(もっと快い、喜びに満ちた調べに声を共にあわせよう)


それは広奈様の十八番、ベートーベンの第九だった。

いつかカラオケでも聴いた曲。

突然歌いだした広奈に、春樹は一瞬狼狽したものの、すぐに模範的な聴衆へと変わった。

いや、誰であれこの声の前では、等しく聞き惚れるに決まっているのだ。


Freude, schoner Gotterfunken,Tochter aus Elysium,
(歓喜よ、美しい神々の花火よ、天上の楽園からの乙女よ!)

Wir betreten feuertrunken, Himmlische, dein Heiligtum!
(我等は炎のような情熱に酔って天空の彼方、貴方の聖地に踏み入る!)

Deine Zauber binden wieder, was die Mode streng geteilt,
(あなたの魔力は時流が厳しく切り離したものをも再び結び合わせ)

Alle Menschen werden Bruder, Wo dein sanfter Flugel weilt.
(あなたの柔らかい翼が留まる所で、全ての人は兄弟となる)


広奈の歌声はどこまでも澄んでいて、伸びやかな高音はどこか郷愁を誘う。

天からの授かりものであるその美しい声に、揺るぎなき絶対音感。

卓越した表現力、優美さと大胆さの完璧な調和。

ヴォーカルのみ、アカペラの広奈の歌声はしかし、背後にフルオーケストラが控えるがごとく、春樹の全身を圧倒した。

それは陶酔感をすら呼び起こす、無上の経験だった。

広奈の声に聞き惚れていたのはごく最初だけで、やがて春樹の中で、すべての音は意識の外に。

比類なき歌姫の調べに、春樹はふるさとを想う。

家族を想う。

下宿のおばさんの料理の味。片倉真理と一緒に食べる朝食。

退屈な授業、学校の屋上からの眺め、スナイパーライフルを構える緊張感。

失って初めて分かる、愛すべき平穏な日々。学校のみんな。

あるいは二度と会うことができぬかもしれない人々。

そして明智瑠華。五稜郭の戦い以来離れ離れの少女。もしかしたら、たった一人で魔王との戦いの場に取り残されているかもしれない。

圧倒的な魔王の強さの前、幾ばくも持ちこたえられないだろう。


そうだ…。


春樹の脳裏に、魔王によって無残に傷つけられ、力なく倒れる瑠華の姿がくっきりと見えた気がした。

愕然とした。

心の一部をどこかに置き忘れていたように、無くしたままだった半身の存在にようやく気付いたように。

春樹は自分の心にぽっかりと欠けていた何かをはっきりと認識した。

なぜ、どうして今まで気付かなかったのだろう。

自分のことで精一杯で、まったく気が回らなかった。

現代に戻ることは、自分達の希望ではあるけれども、同時にそれは果たすべき使命でもあるのだ。

僕は帰らなければならない。時間を越えて、もう一度現代で魔王と戦うために。

あのままでは魔王によって、あの平和で穏やかな世界がめちゃくちゃにされてしまうかもしれない。

片倉真理が、下宿のおばさん、あいちゃん、あゆちゃん、そして明智瑠華、クラスのみんなが、傷つき、倒れる姿を見たくはない。

僕たちが戦う理由は、現代に戻りたいから。でも、それだけじゃない。現代に戻って僕たちの大事な人を守るため、そのために平安時代の今を戦うんだ。

五稜郭で魔王を倒すために、僕は強くなって戻らなくちゃいけないんだ。


Deine Zauber binden wieder, was die Mode streng geteilt,
(あなたの魔力は時流が厳しく切り離したものをも再び結び合わせ)

Alle Menschen werden Bruder, Wo dein sanfter Flugel weilt.
(あなたの柔らかい翼が留まる所で、全ての人は兄弟となる)


今までの僕は、多分目の前に起こることしか見えていなかった。

戦う意味も、傷の痛みも、敵を殺すことも、すべては繋がっているんだ。

進むべき道も、なすべきことも、僕はようやく…。


本当のお姉さんのように僕を可愛がってくれた片倉先輩、僕を『陰陽武道士』に選んでくれた明智さん、そして僕の人生を豊かにしてくれるみんな。大切な人たちを絶対に守るんだ。


◇真田淳二の場合◇


「おっ、広奈ちゃん歌ってるのか」

さっきまで庭に突っ伏していた淳二は、聞こえてきた歌声に、立ち上がるのをやめて、座ったまま鑑賞。

(やっぱ、広奈ちゃんの歌はええのう〜)

いつかみんなで行ったカラオケを思い出す。

(ってか、やばい。…カラオケ行きたい)


この時代では決して出来ないこと。


不意に、本当に不意に、怒涛のように淳二の中に、流れ込んできたものが…。

…そういえば楽しみにしていたアニメ、もう放送されてしまっただろうか。

…最終回間近だったあの漫画、いったいどんなオチが付くんだろう。

…前回知り合ったサークルの新刊、読んで感想を書くって約束してたっけ。

…そうだ、あそこのサイトもう新作更新されてるころだよなぁ。

…むっ、あのゲームそろそろ発売日だった。やらねばなぁ。

…次のK-1GPも、PRIDEも、F1も、見たかったのにぃ〜。

…ってか、まだまだかあちゃんに真田流古武術の秘伝を伝授してもらってないし。

…そういえば、就職して以来、兄ちゃんにあんまり会ってないなぁ。


もう、全部無理なのかな。



Deine Zauber binden wieder, was die Mode streng geteilt,
(あなたの魔力は時流が厳しく切り離したものをも再び結び合わせ)

Alle Menschen werden Bruder, Wo dein sanfter Flugel weilt.
(あなたの柔らかい翼が留まる所で、全ての人は兄弟となる)


うんにゃ、オレはやるぜ。

何としても現代に戻って、たまりにたまった楽しみを全部こなしてやる。

読みたい本も、見たい映画も、やりたいゲームも、友達も、みんなオレを待ってるんだからな。

確かに平安時代で、美亜子ちゃんや広奈ちゃんと仲良くやるのも魅力だが、オレの本領はやっぱり現代でないと発揮できないからな。

なんとしても、戻ってやる。


◇本多美亜子の場合◇


庭に淳二を放置し、屋敷に戻っていた美亜子は、ちょうど広奈と春樹がいる部屋のふすまに手をかけたところだった。

すると、部屋の中から聞こえてきた歌声。

なんとなく美亜子は部屋の外に留まり、目を閉じて聞き入った。

広奈の歌は、多分それに込められた想いが伝播し、聞く人の心の中に故郷や、守るべき人を思い起こさせるらしい。

まぶたの裏に浮かんだのは、自分を全身全霊で愛し、強く育ててくれた両親の姿。

(パパ…、ママ…。どうしてるかしら…)

おそらくあの父は、美亜子無しの人生など考えられないだろう。

父にとって、生きがいとしての娘。その強さの完璧な後継者としての娘。

ひたすらに娘を慈しみ、そして槍術の奥義を伝授してくれた父。どこまでも暖かい母。

二人にとって自分は決して失ってはいけない存在なのだ。

ある日、忽然と娘が姿を消したら、二人は全てをなげうっても捜そうとするだろう。

何日も、何日も、泣きながら娘の名を呼び続けるのだ。



急に、自分の命の重さが増したような気がした。



Deine Zauber binden wieder, was die Mode streng geteilt,
(あなたの魔力は時流が厳しく切り離したものをも再び結び合わせ)

Alle Menschen werden Bruder, Wo dein sanfter Flugel weilt.
(あなたの柔らかい翼が留まる所で、全ての人は兄弟となる)


(帰ってあげなくちゃ…。じゃないと、パパは…)

そしてそのためには絶対に死んではならない。

将門のときのように、決して自暴自棄になってはいけない。

この命は、自分のためだけのものではない。

すでに輪に一度救われた命。今度はみんなを助けてやる番。

絶対に、誰も死なないように。全員で現代に帰れるように。



◇17時40分 羅城門 直江輪&乙姫◇


羅城門に背を向け、人気のない小さな林の中に輪と乙姫は向かっていた。

そこに、晴明の十二神将が一体隠れているのだ。

本来の主目的である“如意珠”はすでに竜宮から持ち出している。

今は、乙姫の願いであるささやかな寄り道を済ませ、あとは晴明の屋敷に戻るだけ。

すでに日も沈み、視界も利かない漆黒の風景が二人を包む。

羅城門を通って平安京に入る旅人の姿も、日没と共にめっきり減り、闇だけが支配する平安の夜が到来。

仲良く手をつないで足場の悪い林の中をゆっくり歩く輪と乙姫は、どちらが先にというわけでもなく、ある異変に気付いていた。

「むっ?」

「あれ…?」

揃って立ち止まると、輪はあたりに耳を澄ませる。

(妙だな、虫の音が聞こえない)

乙姫は龍神の目で辺りをきょろきょろと見回す。

そういえば、近江方面からと丹波方面からは旅人の往来があったが、摂津、大坂に続く道は人が一人も通っていなかったのではないか?

それに、このなんともいえない嫌な予感。

そう、大江山の鉄の御所を前にしたときのような…。

何かが近付いてきている。

それも、とびっきり恐ろしい何かが…。

「乙姫、気付いているか?」

「…輪さん、何か来ます」

ぎゅぎゅっと輪の手を握る乙姫の手に力が入る。

輪は素早く辺りの地形を観察し、羅城門が見え、なおかつこちらの身を隠すのにちょうどいいポイントを発見。

林の中で、少しだけ小高く、深い茂みに覆われたその場所に、乙姫をいざなった。

「身を低くしろ。なるべく音を出すな」

「……はい」

ずしっ、ずしっ、ずしっ…。

何か大型の生き物の足音。

「ヒィィィィ、ヒョォォォォ」

薄気味悪い、鳥のような鳴き声。

さらにざわざわと大勢の人間の声のような音。

目で確認できたのは、数十、いや三桁に上りそうなかがり火の列。

(なんだ、どこの軍勢だ?)

参議藤原忠文を大将軍とする征東軍、つまり朝廷の主力部隊はすでに将門討伐のため東国へ向かっているはず。

もう少しその様子を確認しようと目を凝らした輪は、信じられないものを目撃した。


ずしっ、ずしっ、ずしっ…。

あたりの地面を震わせる足音を立ててのし歩いていたのは、象ほどの巨体に8本の足、蜘蛛の体に牛の頭部を持った巨大妖怪“牛鬼”だった。

「なっ、なんの冗談だこの化け物」

輪君、思わずそう呟いて絶句。

大江山の鉄の御所攻略戦でも牛鬼が1頭いたが、輪が到着する前に美亜子と淳二と乙姫が倒していた。

ゆえに、輪は牛鬼の姿を見るのはこれが初めてである。

「り、輪さん、あの牛鬼に人が乗ってます…」

確かに輪の目にもそれは見えた。牛の頭部と蜘蛛の体を連結する首のところに、鞍も置かずに一人の男が跨っていた。

「馬鹿な…」

あんな巨大な妖怪を支配下に置いているというのか?

将門亡き今、そんな人間が他にいるわけがない…。

だが、輪と乙姫を驚かせたのは、さらにその牛鬼に続いて、何頭もの魔獣、妖怪が列を成していたことだった。

牛鬼の脇に続くのは、巨大な海蛇…。

否、海蛇のような模様と、濡れた鱗を持つ蛇の胴体に人間の女性の胸から上が付いている、奇怪な妖怪だった。

蛇の胴体の長さは10m以上あるだろう。

それが鎌首ではなく女の上半身をもたげ、くねくねと進んでいるのだ。

「輪さん、あれは“濡れ女”です。かなり凶暴で、恐ろしい妖怪です…」

どうやら乙姫はその存在を知っているらしい。

しかし、その名を口にしたときの恐れは、輪にもよく分かった。

龍神ですら忌避する類の凶悪な化け物…。

牛鬼と濡れ女が並んで通り過ぎたあと、さらに輪の視界に入ったのは…。

頭は猿、胴体は狸、手足は虎のそれで尻尾は蛇。輪にとって見るのはこれが初めてだが、おそらくはかつて春樹が襲われたという“鵺”だろうと予想がつく。ヒグマほどの大きさのそれが2頭。

「ううぅ、大ムカデもいる…」

龍神にとって苦手な相手であるムカデの化け物。大きさは以前三上山で淳二と広奈が戦ったものより一回り以上小さいが、それでも15mはありそうなのが1匹。

その脇にはこれまた輪の見たこともない妖怪の姿。

上半身は髪の長い人間の女性、下半身は蜘蛛。

しかも牛鬼のような平べったい蜘蛛ではなく、8本の足が直立に近い、いかにも俊敏そうな蜘蛛の体の上に、人間の女の体が乗っているのだ。

女郎蜘蛛と呼ばれる妖怪である。

以前輪と美亜子が戦った土蜘蛛より随分サイズは小さいが、戦いにくさ、と言う点ではこちらが上かもしれない。それが1匹。

そんな妖怪大戦争な行列のあとに、かがり火を持った人間たちが続く。

手に槍や弓矢を持ったもの、あるいは太刀などを佩いているもの、武装はバラバラだが、みな鎧などはつけず、軽装だった。

揃いも揃って潮焼けした肌に無精ひげの悪人面ばかり。

正規軍と言うよりは、明らかに賊。それもおそらくは海賊だろう。それが数百…。

まさに、これから略奪暴行を働きます、ってな感じで、その目は爛々と欲望にたぎっている。

妖怪軍団と、海賊を従えるのが、あの牛鬼に跨った首領格の男だろう。

一体、誰なのか?

と、軍勢の行進が止まった。

羅城門の手前100mと言ったところ。

すでに巨大な妖怪の姿を目にしたのか、近江、丹波方面からの人の往来はなく、半狂乱で羅城門を抜けて都に逃げ込む人の姿がちらほら見られる程度。

それを悠然と見やっていた首領は、やおら牛鬼の上に立ち上がり、蜘蛛の胴体の上まで歩いていくと、後ろにつき従う軍勢に向かって声を張り上げた。

「機は熟した! 今こそ我ら都に攻め上り、内裏に藤原純友の旗を立てるときぞ!」

「「おおーーっ!!」」

熱狂する賊たち。

(藤原純友だと!)

それを聞いて愕然とする輪君である。

平将門が東国で乱を起こしたのと同じ時期、瀬戸内海で暴れまわっていた海賊。その名前が藤原純友だ。

魔王の力を得ていたのは将門だけだと思っていたが、それはとんでもない思い込みだった。

やはり東西呼応して反乱を起こした藤原純友にも、魔王の息がかかっていたのではないか?

でなければ、この妖怪軍団の存在に説明が付かない。

輪が甚大なショックを受けている間にも、藤原純友の戦意高揚の演説は続いていた。

「平将門殿が反乱の兵を挙げてくれたおかげで、今、平安京の兵力はここを留守にし、関東に向かっている。まさに空城も同然! 攻め落とすのは今ぞ!」

「「おおーーっ!!!」」

(…この男、かなりの策士だ)

聞きつつ、輪はこの藤原純友と言う男に高い評価を与えていた。

確かに都の兵がいない隙を狙うタイミングといい、必要なとき、必要な場所にドンピシャで戦力を集結させた手腕といい、このアジテーションといい、凡将のよくするところではない。

遠目に見ても長身でよく鍛えられた肉体を誇る、武門の人間であることがよく分かる。

いわゆる武人公家だ。

元は政権を握る藤原北家出身のれっきとした名門でありながら、海賊となり、朝廷に昂然と反旗を翻す、その気概。

並みの男ではないことは、そこからも分かる。

なによりも、今この瞬間まで、その軍勢が平安京に向かって攻め上っていることを、誰にも知られずにいたという、この隠密性こそが、もっとも恐るべき点である。

「よいな! かねてからの手はずどおり、朱雀大路を一気に駆け抜け、まずは内裏を制圧するのだ。そして帝と貴族どもは皆殺しだ。明日よりこの藤原純友こそが、帝ぞ!」

「「おおおーーーーっ!!!」」

おそらく、この場で輪が何もせずに手をこまねいていれば、藤原純友は平安京、そして内裏への奇襲を成功させるだろう。

純友自身が言ったように、現在の平安京はまともな兵力もなければ、安倍晴明らも鞍馬山に行っていて留守にしているのだ。

このままでは魔王の力を借り、妖怪軍団を指揮下に置いた男が、易々と平安京になだれ込み、政権をひっくり返してしまう。

日本の歴史上、ありえない出来事が、今まさに、輪の目の前で起きてしまおうとしていた…。

当然ながら、日本史をこよなく愛する歴史マニア、直江輪の看過しうる事態ではなかった。

人道的に言っても、平安京の多くの人々が、妖怪軍団に蹂躙されるのは防がなくてはなるまい。

だが、自分一人だけでは、この大軍に対処できるわけもない。

援軍が要る。強力な援軍が、それも早急に…。


「ど、どうしよう、輪さん…」

乙姫に袖を引かれ、輪は思わず、こんなことを呟いた。

「美亜子を呼ばなくては…」

ほとんど無意識のうちにそんなことを口に出したことに、輪は自分で少しだけ驚いた。

だが、すぐに冷静にその言葉を反芻して思考をまとめ、乙姫のほうを向くと、輪は改めて指示を出した。

「乙姫、今すぐ十二神将に乗って晴明の屋敷に帰れ。そして皆に今起きていることを伝え、一刻も早く援軍に来てもらうんだ。…全員で対処しなければ、勝てん」

危機に際した輪の口から、無意識かつ真っ先に美亜子の名前が出たことに、ほんの一瞬乙姫は複雑な気持ちになった。

が、しかし、その指示に対してはこっくりと頷いた。

「はい。…でも輪さんは」

そう聞きながらも乙姫は分かっていた。

輪がどう行動するかは、すぐに分かったのだ。

「俺は、ここに残る。羅城門を突破されぬよう、時間を稼ぐ。さぁ、早く行け。一刻を争う」

分かっていても、おいそれと了承できるものではなかった。

乙姫は輪の顔を見、ちらりと藤原純友の軍勢に目をやった。

たった一人で、到底太刀打ちできるような戦力差ではない。

大江山の鉄の御所を輪だけで攻略するようなものだ。

自分も残って一緒に戦う、と乙姫は言おうとしたが、輪のほうが先に口を開いていた。

「乙姫、心配するな。無茶はしない。大丈夫だ。俺は一人では戦わないし、勝ち目がなければ別な方法を考えるさ。だから急いで援軍をつれてきてくれ。俺はそれまで何とか敵軍の足を止めてみせる」

「で、でも…」

なおも躊躇する乙姫に、輪はきっぱりと言いきった。

「俺に死んで欲しくないなら、急いで行け。援軍を待っている」

「………(こくり)」

すでに目に涙を溜めて乙姫は頷いた。

そして、ずっとつないでいた手をぱっと離すと、十二神将のいる場所めがけ、走り出した。

何度も、後ろを…、輪のほうを振り返る衝動に耐えながら。


「そうだ。いい子だ」

そんな乙姫の姿にちらっと目をやってから、輪は再び藤原純友の姿を確認した。

演説が終わったと見えて、再び牛鬼に跨っている。

あとは突入の指示を出すだけ、といった様子。

輪の少し背後で十二神将が飛び立った気配。

(輪さん、どうか無事で、死なないで)

声にならない乙姫の叫びを聞いた気がした。

(ああ、分かっている)


『愛だっ!』

直江兼続の鎧をまとう。

戦う力と、勇気と、そして愛が体中にみなぎってくる。

輪は、走り出した。

その視線の先、藤原純友は太刀を抜き放ち、今まさに、突撃の号令をかけようとしていた。

もはや、一刻の猶予もなかった。

策を講じる余裕も、今この場で戦端を開く以外に、足止めできる手段も残されていない。

(くっ、やるしかないのかっ)

直江輪にとって、かつて経験したことのない、もっとも困難な戦いが始まろうとしていた。

たった一人の防衛戦争。

平安京の運命と、日本の歴史の分岐点が、今、まさに輪の両肩に乗っていたのだ。

(俺は死なない。死んでたまるか。もう一度綾瀬に会うまでは、どんなことがあっても生き延びる!)

これまでにないほどの真剣さと、決死の覚悟を持って、輪は前立てを敵に向け…



平安京の入り口で、愛を叫ぶ。



次回を待て!


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