陰陽五行戦記
第一章 ◇平安編◇
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輪に対して美亜子が放った突きは、半ば防御のことを考えない、“反撃を受けたってかまわないわ”的な一撃だった。 実のところ、美亜子は心のどこかで輪に負けるつもりだった。 一時の興奮状態と将門に負けたショックから自暴自棄になっていた美亜子は、そういう部分の未熟さを輪にだけ、さらけ出していたのである。 今までは“あたしは輪より強い”、だから頭ごなしに何かを言われると癪に障る、そういう関係だった。 しかし、今の美亜子は弱かった。 むしろもっと輪に叱ってほしかった、だから負けてもかまわない。 本当は自分の一撃を輪に軽く受け止めてもらいたかった。 そして、もう一度諭してほしかった。 「今のおまえじゃ無理だぞ」と。 自分に勝った相手になら、輪になら叱られてもいい。 そのときは改めて輪の言うことを受け入れよう。 そういう感情の動きが美亜子の一撃には隠されていたのである。 しかし…、 「ごふっ!?」 美亜子の一撃は見事に輪の胸板を直撃。さらに不可視の衝撃を受けて輪は吹き飛んだ。 (…どうして!?) 美亜子は理解不能の現象に動揺を隠せない。 タイミングはばっちり、輪の刀は美亜子の槍を弾き飛ばしていたはずだった。 しかし美亜子の手に、槍を弾き飛ばされた手ごたえは伝わらなかった。 なにしろ、彼の刀は将門によって折られていたのだった。 刀身がないのでは防御もできない。 結果、美亜子の一撃は輪を景気よく温泉の外にまで吹き飛ばしてしまった。 (バカ…、なんで防いでくれないのよ) 再び美亜子の目から涙が零れ落ちた…。 もう輪は戻ってこない、それは長い付き合いでわかっていた。 (バカ…、輪のバカ…) 温泉に一人立ち尽くす美亜子は、ただ止め処もなく涙を流し続けるのだった。
とにかく事態は最悪だった。 美亜子が悪いのか、自分が悪いのか、あるいは“運”が悪いのか…。 (馬鹿者…、なぜ勝てないんだ) 悔しさと情けなさと不甲斐なさ、三つの感情のジェットストリームアタックが輪を押しつぶしていた。 そしてそんな暗いオーラを漂わせ、横たわったままの輪に淳二が声をかけた。 「…なぁ輪、ハルを踏んでるぞ」 その一言で輪は苦悩の海から浮上した。 「…悪い」 そう言って立ち上がった輪だったが、一瞬顔をしかめて胸を押さえた。 (い、痛い。シャレにならないくらい痛い…) これまで輪はまともな怪我を負ったことがなかった。 土蜘蛛、源満仲、九頭竜、将門と、強敵相手にも特に傷を負うことなく戦い抜いてきたのだ。 それが、よりによって痴話げんかでこんな、初めての怪我をしてしまうとは…。 良くて肋骨にヒビ、悪ければ何本か折れているかもしれない。 無理も無かった。攻撃を受けると思ってなかったからまともに受身も取れなかったのだ。 いくら頑丈な鎧と闘気のバリアがあったにせよ、美亜子の捨て身の一撃を喰らって無事で済むはずが無い。 そして痛みと戦う輪の前には傷を治す温泉…。 温泉に入ればすぐに楽にはなる。 だが… (いまさらどの面下げて美亜子の前に出られる…) それは輪の意地というか、ささやかなプライドだった。 少なくともしばらく美亜子を一人にして頭を冷やさせる必要がある。 そうでなくては二人の関係がギクシャクしたままになるだろう。 そんなわけで、しばらく美亜子と顔をあわせたくないので温泉での治療は不可能。 「…行くぞ、しばらくは美亜子を一人にしてやってくれ。あいつはあいつで結構ショックを受けてるんだ」 脂汗すら浮かべながら、しかし輪は平然を装って淳二と春樹に声をかけた。 そして変身を解いて武家装束姿に戻ると、痛む胸を押さえてふらふらと屋敷に向かって歩き出した。 むしろその後姿に鬼気迫るものを感じ、淳二と春樹は言葉も無い。 二人顔を見合わせて輪のあとに続くだけだった。 ちなみに春樹のおでこには“愛”のたんこぶが出来つつあった…。
後ろには淳二と春樹もいたが、とりあえず二人の目には入っていない。 (まぁ、怪我を…) 広奈が見抜いた。 そして晴明の言葉から原因を想像。 (美亜子さんとけんかでもしたのかしら…) 女難ということは多分そうなのだろう。 どちらにせよ今の輪は全身に“敗軍の将”といった雰囲気をかもし出していた。 当然乙姫が心配げに輪のそばに飛んで行った。 「り、輪さんっ、大丈夫? どこか痛いの? なにか悪いことでも起きたの?」 輪は乙姫に笑顔を見せて誤魔化そうとしたが無理だった。 とにかく痛いのだ。 笑うどころの騒ぎではなかった。 「…大丈夫だ。心配要らない」 そう言うのが精一杯だった。 そして乙姫が何か言う前に、背に乗っている広奈に声をかけた。 「すまない、治癒の術をかけてほしいんだが…」 広奈は優雅に乙姫の背から降り、輪に近づくとこっそり耳打ちした。 「美亜子さんですか?」 この怪我の原因、ということだろう。 輪はうなずいた。 広奈は温泉に行け、とは言わず「わかりました」とだけ答えた。 (…察してくれたのだろうな) 輪は心中で広奈の聡明さに感謝していた。 広奈は変身を解いて袿(うちき)姿に戻り、治療をするべく輪を屋敷へといざなった。 そんな二人の様子を見せられた乙姫は少々悲しくなった。 なんとなく疎外感を覚え、淳二と春樹のほうに移動する。 「……あの、輪さんいったいどうしたの?」 春樹は首をかしげ、淳二はちょっと目配せした。 輪がいる場では言いにくい、とそう受け取った乙姫は口をつぐんだ。 そして輪と広奈が屋敷に消えていくのを見送ると、再び淳二のほうを見た。 「…たぶん、輪のやつが美亜子ちゃんを怒らせたんじゃないの」 ぽりぽりと頭をかきながら淳二がそう言った。 「怒らせるって? どうして?」 「わかんないけど、輪って意外に不器用だからなぁ、それでだろ」 淳二はそう言って肩をすくめた。 それとも美亜子ちゃんにやらしいことをしようとして半殺しにされたとか、と淳二は冗談半分に言おうかと思ったのだがそれより乙姫のほうが早かった。 「わ、わたし、美亜子さんに聞いてくるっ」 乙姫がそう言って飛び立とうとする。 その慌て具合に、淳二はさっきの冗談を言わなくて良かった、と思いつつ一応乙姫を止めた。 「あ、やめておいたほうがいいよ。輪がしばらく美亜子ちゃんを一人にしといてくれ、って言ってたし」 「…あ」 輪がそう言ったのに自分が行ったら嫌われてしまうかもしれない、でも美亜子に理由を聞きたい、そんな二律背反で乙姫は落ち込んでいた。 乙姫がシリアスモードに入ってしまったので、淳二もちょっとまじめに一言。 「これは二人の問題だから、オレたちが口出ししないほうがいいんじゃないかな」 乙姫に対してはそう言いつつも、淳二は自分では理解できない感情に困惑していた。 悔しいのだ。“二人の問題”と言うときに心のどこかが痛んだ。 多分、それは輪への嫉妬、と呼べるものだったかもしれない。 自分は1年ちょっと、しかしあの二人の付き合いは10年以上。 まだまだ立ち入れない領域があるってことが、淳二にはやはり悔しかったのだった。
一応入ったことのある部屋はそこか食事をした部屋だけだったので、そのほかの選択肢は無かったというわけである。 部屋に入ると広奈はまず輪を座らせ、自分も差し向かいに座って聞いた。 「美亜子さん、泣いていました?」 質問の意図がいまいちつかめなくて輪は困惑したが、ひとまず額面どおりに受け取って返事を返した。 「ああ、やはり負けたのがだいぶショックだったらしい」 「では、美亜子さんが泣いているとき、輪さんはどうしていたんですか?」 ますます答えにくい質問だった。 まるで証人喚問だな、と輪は思ったが、ともかくこの問答を終わらせないと傷を治してもらえない、そんな空気を察して正直に答えることにした。 「…慰めようとしたんだが、逆効果だった。それで…まぁ、二人ともつい感情的になってしまって」 「輪さんが怪我をするようなことになってしまったわけですね…」 「…そんなところだ」 刀が折れていたのを忘れていて防御に失敗した、とは恥ずかしくて言えなかった輪である。 「やっぱり…」 広奈は少々顔を曇らせるとため息をついた。 なんとなく晴明から女難と聞かされたときに、うすうすこの事態を想像していた。 美亜子のような天才ほど、積み上げてきた強固なプライドの持ち主ほど、それを打ち砕かれたときの衝撃は大きいものだ。 そして多分自分もそうなのだろう。 美亜子に起きた事を自分に置き換えて、むしろ自分だったら、輪がそばにいたなら…、広奈はついそんなシチュエーションを考えてしまった。 演劇部の血が騒いだ。 そして輪はというと傷が痛むのか、美亜子をうまく慰められなかったことに落ち込んでいるのか…、ともかく、いつもと違って悄然と座っている。 その姿が、普段とのギャップが妙に広奈の保護欲をそそった。 要するに広奈はある意味母性本能を刺激されてしまったのである。 そんな広奈の心境の変化にはまったく気付かない輪が、こう切り出した。 「なぁ、武田。俺はどうすればよかったんだろうか…」 その一言が、広奈を大胆にさせてしまった。 落ち込んでいる弟を慰める姉の心境、このときの広奈はそんな状態だった。 「輪さん、そういうとき言葉は無力です。慰めの言葉をかけるよりも」 と、広奈は立ち上がって輪に接近した。 「こんなふうに優しく肩を抱いてあげたほうが美亜子さんも…」 そう言いながら広奈は演技指導をして見せた。 つまり、輪の肩に優しく手を回すと、ついで自分の胸元に輪の頭をふわりと抱えたのだ。 (☆〒√θ$!!!) 輪を史上最大規模の狼狽が襲った。 あまりのことに輪がガンダリウム合金のように硬くなっていると、広奈は今度は輪の後頭部を撫で始めた。 「それから、安心させるためにこうやって頭を撫でてあげるのも効果的ですわ」 なでなで…。 (……………………………………………………………………………………………………………………) 広奈は完全に演技指導のつもりだったが、教わる側が悪かった。 頭が真っ白になってしまいもはやそれどころではないのである。 心拍数が増大し顔は真っ赤、そして傷の痛みも一発で吹っ飛んでいた。 「ね、輪さん。わかりました?」 全然わかってない。 しかし、輪は壊れた操り人形のように、かくかくと首を上下に動かした。 「今度は失敗しないでくださいね」 広奈はにっこりとそう言うとふわりと輪から離れた。 一方の輪は今の一件で、のどがからからに干上がってしまっていた。 で、広奈が離れたので生唾を飲み込んだ。 んごきゅ。 そして思いっきりむせた。 「ごほっ、ごほっ、…ごふっ」 3回目でようやく忘れていた痛みを思い出した。 途端に輪の顔から大量の脂汗がにじみ出た。 無理も無い。肋骨が折れてるのに咳なんぞしたものだから、想像を絶する痛みが輪を襲っていたのである。 胸を押さえた輪の苦悶の表情に広奈の顔色も変わった。 「ごめんなさい、輪さん。治療が先でしたわ」 後の祭りである。 「もしかすると…、肋骨が…」 かすれた声で輪がそう広奈に訴えた。 「わかりました。服を脱いでください」
「ですから、治療するためにも怪我の具合を見なくてはいけません。上だけで結構ですから脱いでください」 ぴしゃりと言われて輪も抵抗できない。 仕方なく輪は“この桜吹雪が目に入らぬか”てな感じで袖から腕を出してもろ肌を脱いだ。 よく鍛えられ、贅肉の無いしなやかな輪の上半身があらわになった。 「…まぁ」 広奈の顔が微妙にほころんだ。 (な、なにが「…まぁ」なんだ?) 輪がちょっと動揺。 しかし広奈は一瞬で表情を元に戻すと傷の具合を確かめた。 ひどい打撲、それから確かに骨が折れていたのか、内出血もしている。 「まず打撲を治療し、それから骨を繋ぎますね」 「…たのむ」 とにかく早く楽にしてくれ、という本音が見え隠れする輪の必死の表情。 広奈はうなずき、術の集中。 『打撲治癒・急急如律令』 すーっと、輪の身体から痛みが引いていった。 見れば打撲の傷が若干消えていた。 「…まだ足りませんわね」 広奈はそう言うともう一度。 『打撲治癒・急急如律令』 …まだだった。 『打撲治癒・急急如律令』 …もうすこし。 『打撲治癒・急急如律令』 …効果なし。 一応表面的な打撲の傷はほぼ消えていたが、もっと深刻な骨折のほうは全然治っていない。 陰陽道の術で治せる傷には限度があるし、そもそも同じ相手にこの術を重複して使ってもあまり効果が無いので、この辺でうち止めである。 「ふぅ…」 少々疲れたように広奈が一息つくと、今度は遠慮なく輪の胸元に手を伸ばした。 ぺたぺた…。 「…!?」 輪が驚愕に表情を固まらせると広奈は聞いた。 「今のところが痛むんですか?」 どうやら触診らしい。 そう気付いた輪が慌てて修正する。 「あ、いや、この辺だ」 自分で痛む場所を指し示す。 「わかりました、今度はちょっと時間がかかりますから…」 そう前置きして広奈はぶつぶつと呪を唱え始めた。 『打撲治癒・急急如律令』の場合はこの一言で終わっていたが、今回は違うらしい。 広奈はおよそ1分ほど集中すると、輪の傷にぺたっと右手を触れさせてお決まりのセリフを唱えた。 『骨折接合・急急如律令!!』 その瞬間。
景気のいい音が響いた瞬間、しかし輪は自分の身に起きた事を理解していなかった。 ワンテンポ遅れて猛烈な激痛が彼の身体を駆け巡った。 「!!!!!!!!!!!!」 衝撃に息がつまり、うめき声すら出ない。 どうやら肋骨が完璧に折れてしまっていた。 救いを求めるように広奈の顔を見上げた輪だったが、その広奈はぱったりと気絶して輪のほうに倒れ掛かってきた。 とっさに、もうこれは賞賛に値するのだが、条件反射的に輪は身体を開いて倒れてきた広奈を受け止めた。 しかし、痛みをこらえつつの輪の行為は、更なる災難の始まりでしかない。 どさっ…、と広奈の頭がちょうど輪の胸元に当たった。 「!!!!!!!!!!!!」 再び輪の呼吸が止まり、あまりの痛みに悲鳴すら上げることができない。 「…っく」 辛うじて息をつぐと、輪は広奈の身体を床にそっと横たえた。 しかし、自分もそのまま倒れそうになってしまい、とっさに手を床についた。 その瞬間…。 「夕食の用意ができ……」 いつの間にか元の姿に戻っていた乙姫が部屋の戸を開けたのだった。 そして二人の姿を見て凍りついた。 「…あ」 輪は上半身裸、そして床に寝た広奈に覆いかぶさっていた(ように見えた)
「…こっ、これはだな」 輪が慌てて弁明を始めるより早く、乙姫は完璧に引きつってしまった顔のままふらふら後退し、戸を閉めてしまった。 そして、ばたばたばたばたばたばた…、と慌てて走り去る足音。 (まずい…、これは非常にまずいぞ…) 直江輪、将門のときとは比較にならないくらい、むしろこっちのほうが生涯最大のピンチ。
食卓について乙姫が二人を連れてくるのを待っていた淳二と春樹は、乙姫が全速力で部屋の前を駆け抜けていくのを見て顔を見合わせた。 「あれ、乙姫ちゃんどうしたんだろ?」 「…何かあったのかな?」 なにやらただ事ではない雰囲気を二人は感じ取っていた。 そして、二人して立ち上がった。 「オレ、乙姫ちゃん見てくるよ」 「じゃあ、僕は武田さんと直江君を」 うなずきあうと、二人は部屋を出て左右に分かれて歩き出した。
一つ目はあまりの激痛に立ち上がることもままならない点であり、もう一つは気絶してしまった広奈の様子が心配だったからである。 常人なら悶絶しかねない激痛に耐えながら、輪は広奈の様子を観察する。 …どちらかと言えば、疲れて寝ているようにも見える。 (術のかけすぎで消耗したのだろうか…) そう考えた輪だったがともかく広奈を起こそうと肩をゆすった。 「おい、武田、大丈夫か?」 ゆさゆさ…。 しかし、起きる気配は無い。 そしてゆすっている側の輪も、ゆするたびに自分の胸に激痛が走り、ついに耐え切れずにまたまた手をついた。 その瞬間…。 「なにかあったの?」 二人の様子を見に来た春樹が部屋の戸を開けたのだった。 そして二人の姿を見て凍りついた。 「…あ」 輪は上半身裸、そして床に寝た広奈に覆いかぶさっていた(ように見えた)
「…こっ、これはだな」 輪が慌てて弁明を始めるより早く 「ご、ごめんなさい」 春樹は完璧に引きつってしまった顔のままそう言うとふらふら後退し、戸を閉めてしまった。 そして、ばたばたばたばたばたばた…、と慌てて走り去る足音。 (まずい…、これはものすごくまずいぞ…) 直江輪生涯最大のピンチ、さらに悪化。
そして屋敷からしばらく離れたあたりでようやく乙姫の足が止まった。 「ど、どうしたの乙姫ちゃん?」 少々息を切らせつつ淳二が聞くと、乙姫は目に涙をいっぱいに溜めて振り返った。 そして怒涛のように喋りだした。 「あのあの、あのね、り、輪さんと広奈さんが、あの、えっと、その、ほ…、抱擁を…、その…」 「は? 抱擁? まさか〜」 「で、でもでもでもでも…、わたし見ちゃったもん」 「う〜ん…」 ちなみに淳二は最初から信じてない。 さすがに輪が広奈に恋愛感情をかけらも抱いていないらしいことは、見ていてわかるつもりである。 だからその辺をうまく乙姫にわかってもらえれば、と思った淳二は乙姫を慰めにかかった。 「多分、何かの間違いだよ。輪は広奈ちゃんのことは友達以上に思ってないから」 「そ、そうなの?」 涙を溜めた目ですがるように淳二を見つめる乙姫…。 (ま、まずい、乙姫ちゃんってば、かわいいぞ…。いかんいかん、このままではオレもロリコンに…) 淳二のそんな妙な煩悩はつゆ知らず、乙姫は次の一言を待っている。 少々動揺気味の淳二はとんでもない根拠を持ち出した。 「大丈夫! 輪はロリコンだから」 「ろ、ろりこんってなに?」 「えっと、要するにだ…、乙姫ちゃんみたいな子が好きなんだよ」 淳二、舌が滑ったことに気付いていない。 はっきり言ってそれは非常に困る展開になるのだが、本人自覚なし…。 「えっ…? そうなの?」 ぱっと乙姫の表情が輝いた。 (そ、そうなんだ…、輪さんはわたしのこと…) 乙姫今度は照れだした。 逆に不安になったのが淳二だった。 (ひょっとしてオレまずいこと言ったかも…) 後の祭りである。 「と、ともかくさ、いったん戻ってちゃんと様子を見ようぜ」 「うん」 そんなわけで、二人は竜宮へと戻ることになるが、乙姫の心に“ろりこん”の4文字が刻み付けられていたことを輪は知らない…。
彼の目に輪と広奈の姿はかなりのショッキング映像として映っていた。 理由は非常にわかりやすい。 なぜならば春樹は広奈に惚れていたのである。 いわゆる“気弱男の決して言い出せない片想い”ってやつである。 そんなわけで、春樹は現在、これはまったくの誤解なのだが、失恋のショックに打ちのめされていたのである。 (そんなっ、武田さんと直江君があんな関係だったなんて…) じわっ。 ついに涙まで溢れてきた。 (でも、あの二人だったらお似合いだし、多分僕なんかが入り込める余地なんてないんだ…) 元は誤解なのだが春樹の中でどんどん話が作られていき、そしてますます春樹は落ち込む。 というか、“僕なんかが入り込める余地なんてない”とあっさり自分で自分の可能性を摘み取ってしまう、見事なまでのネガティブシンキングの悪循環である。 とりあえず人目につかなそうな屋敷の陰で春樹は座り込んだ。 堪えようとしても春樹の目には涙が溢れてくる。 と、春樹の右腕に巻きついていた小十郎がするすると動き出した。 (…?) そして春樹の顔にすりすり。 「慰めてくれてるの?」 ちろちろ。 「…ありがとう。でももうちょっとだけ時間がほしいんだ。今のままだとあの二人にどんな顔をして会えばいいか分からないから…」 そう前置きして春樹は自分のひざを抱えた。 ………。 小十郎の目に少々不満そうな光がよぎったのを、しかし春樹は見てはいなかった。
しかし、時間がたつとともに、悲しみ、悔しさ、不甲斐なさ、そしてはじめて味わった死の恐怖…、そういった負の感情が消えていった。 いつの間にか涙も止まり、美亜子は冷静に自分と向き直ることが出来た。 一度負けたくらいでぼろぼろになって、何もかも失っていいの? これまで積み上げてきた修行の成果は、たった一回の敗北で意味を無くしてしまうの? あたしはあの時死んでいればよかったなんて、本当にそう思っているの?
もう一度やり直すチャンスもある。 それに今回は油断しただけ。 だからあたしの全力を見せる前にやられてしまったけど、今度戦うときは最初から本気で行けばきっと負けは無い。 うん、そうに決まってる。 本気で戦ったらあたしが勝つんだから…。
すごいスピードであっさり立ち直りつつあった。 その辺春樹とは見事なまでに対照的。 美亜子は基本的に常に自信に溢れた生き方をしてきたわけだし、一回負けたくらいでそれが崩れたりはしなかったわけである。 それとともにさすがに輪に悪いことしたかなぁ、とも思っていた。 一応冷静になってみれば、輪がどれだけ必死に自分を助けてくれたのか、うすうすは分かるつもりだし、自分が目を覚ますまで傍にいてくれたわけで…。 (うん、やっぱり謝ろう。あれを受けて無事で済むはずないし、今頃輪もやせ我慢が限界に来てるはずだもんね。謝って温泉に入ってもらおう) もともと熱しやすく冷めやすい性質だし、さらには悪いと思ったらすぐに謝る気風の良さが美亜子の美点だ。 そんなわけで、輪に詫びようと決意した美亜子は温泉を離れ、屋敷に向かって歩き始めた。
以前晴明が広奈を陰陽師にするときにかけた謎の術の反動が今頃来たのかもしれない、と悪い想像をしたからである。 最悪広奈の精神が崩壊したのかもしれない…。 しかし、広奈は割と安らかに寝ている…。 そこで輪は悪いほうの想像は切り捨てることにした。 そもそも今の自分はあまりの痛みにまともな思考力は絶滅寸前。 そこで重傷を負った自分より、別の誰かに広奈を介抱してもらおうと屋敷を探しはじめた。 一歩部屋を出て呼びかける。 「誰か…」 と、その時点でリタイア。 大声を出すと肋骨に激痛が走ってしまい、とてもじゃないが無理。 仕方なくよろよろと屋敷の中を歩いて人を探したが、あいにく誰もいない。 まぁ、乙姫と春樹がどたばたとどこかに走り去ってしまったのでこの二人がいないのも無理は無い。 となると残りは淳二しかいないが、淳二はたぶん乙姫についていっただろうから事実上屋敷は無人。 そして屋敷に誰もいないと考えると結論はおのずと決まっていた。 頼めるのはあと一人、美亜子だけとなる。 (それはやめておこう、いまさら美亜子にあわせる顔も無い…) 輪はそう思い、結局傷みを堪えつつ広奈を介抱することにした。 部屋に戻って倒れたままの広奈の傍に座る。 すやすやと安らかに寝ている(ように見える)広奈。 それを見た輪が(俺の方がよほど重傷じゃないのか?)、と思ったのもごく自然のことだった。 というか、もはや黙って座っているだけでも胸がずきずきと痛む。 介抱する側がよほど重傷と言うのはどうだ? (やっぱり温泉に行こう。怪我を治すのが優先だ) と思うし、一方で、 (いやいや、美亜子がいるのに行ってどうする。大体だ、傷の痛みに耐え切れなくて温泉に行くのは相当情けないぞ。それに武田をそのままにしておくわけにもいかないだろう) 傷みを堪えつつ1分ほど葛藤。 しかし、徐々に温泉派が優勢になってきた。 激化する痛みがそれを助長する。 そして激痛が輪から冷静な判断力を失わせていく。 (そうだ、美亜子には傷が痛いから温泉に入らせてくれ、なんて言わなくてもいい。広奈を頼む、と言えばいい。それなら体裁も整う。そして美亜子が広奈のところに向かったら、その隙に温泉に浸かって傷を治せるのから一石二鳥だ) …もうだめである。 こんなことを考えている時点で輪の負けである。 しかし今の輪は、美亜子相手に意地を張るよりも、傷が痛むのでまずはそれを治すことが最優先。 輪の心の中で温泉行きが賛成多数により可決された。 最後に広奈をゆさゆさ揺らし、声をかけ、それでもやっぱり起きないのを確認して輪は立ち上がった。 そして温泉に向かう。 …もちろん輪にとって温泉に行くか行かないか、と言うのが目下の大問題だったので、広奈とのことでえらい誤解を招いたことなどすっかり忘れていたのである。
(まずい…) てっきり美亜子は温泉にいると思った輪だったが、予想が外れて少々動揺。 と同時に、この弱っている姿を美亜子には見せたくないと決意。 美亜子がすっかり反省したことも知らず、急遽やせ我慢モードに突入した。 すっくと背筋を伸ばすと、何事も無い風を装ってすたすたと歩く。 それにより痛みは倍増、何しろ胸を張って歩こうものなら肋骨が肺に刺さるんじゃないか、というのが輪の現状である…。 常人なら瞬時に卒倒間違いなしの激痛を抱えつつ、輪は痛みに引きつりまくった表情のまま美亜子と対面する羽目になった。
まるで落ち武者だわ…、と美亜子は思った。 見てはっきりわかるくらいに、輪は心身ともにぼろぼろの状態だったのだ。 そして美亜子には輪が弱っている原因に当然心当たりがあった。 というか、自分のあの一撃が予想以上に輪にダメージを与えていたらしい。 ところが、輪は自分に気付くといきなり、明らかに無理をして平然を装いだした。 (…あのバカ) 美亜子は呆れたが、むしろそんな意地の張りようが輪らしいわ、とも思った。 しかし、輪の様子は尋常じゃなかった。 本人は必死でやせ我慢しているのだが、はたから見ると今にも倒れそうである。 さすがに謝るとかそれ以前に心配になった美亜子は、蒼い顔をした輪の傍まで駆け寄るとまず聞いた。 「あんた、大丈夫なの? ひょっとしてあたしのせい?」 輪はいきなり美亜子に心配されて一瞬表情の選択に苦心していたが、引きつった顔のまま頷いた。 「元はと言えばおまえのせいだが、武田の治癒の術が失敗してしまったせいで、怪我が悪化したんだ… 」 「そっか。それで温泉に?」 (しまった、いきなり見抜かれた…) 輪は心中かなりのダメージを受けた。 これじゃあ傷の痛みに耐え切れなくて温泉に向かっていた、と思われてもしょうがない…。 いやいや、本当の目的はそっちじゃないぞ、というのアピールせねば。 「…いや、違う」 一応真っ向から否定してみる。 「?」 美亜子が不思議そうな顔をして輪を凝視。 どこからどう見ても温泉で治療する目的にしか見えない。 輪はこう美亜子に説明した。 「実は武田が倒れてしまったんだ。それで美亜子に介抱してもらおうと思ってな。頼む。探したんだが、誰もいないんだ」 美亜子は一瞬悩んだ。 目の前には大怪我をした輪、その怪我人が広奈を頼むと言っている…。 「ていうか、広奈のほうは一刻を争うの?」 ここで、即座に肯定できないのが輪の詰めの甘いところであった。 彼はこう答えた。 「いや、多分術を失敗した反動で気絶したか、あるいは術の使いすぎで消耗したんだと思うが…、一刻を争うほどのことは無いと思う」 で、それを聞いた美亜子は自分の成すべき事を見つけた。 「わかったわ、じゃ、まずはあんたからね」 そう言って美亜子は無造作に輪に近づくと、右手を輪の腰の上辺りに回し、ひしっと抱きしめた。 (☆〒√θ$!!!) 輪をまたまた史上最大規模の狼狽が襲った。 とっさのことに輪の舌は機能を停止してしまう。 慌てて美亜子を見ると、切れ長の瞳が上目遣いで輪の瞳を見つめ返した。 至近距離からのその視線が、輪の動きを完全に止めてしまった。 輪はまたしても石のように固まってしまう。 「じっとしてるのよ」 美亜子の唇がその言葉をつむいだが、言われるまでも無く輪は動けなかった。 まさにこの瞬間、輪の命運は美亜子の掌中にあった。 まな板の上の据え膳、輪はもはや美亜子の思うまま…。
たとえ広奈が輪と恋人同士だったにせよ、それで輪を憎むことなど出来ない。 だったら広奈のことをすっぱりあきらめて二人を祝福してあげよう。 春樹は結局こう結論付けて、笑顔で二人に会おうと決意したのである。 で、屋敷の陰から一歩踏み出した瞬間、春樹は見てしまった。 温泉に向かう道中で輪と美亜子が硬く抱擁している場面を…。 「えっ?」 春樹は目が点になった。 一瞬遅れて春樹は再び屋敷の陰に逃げ込んだ。 どきどきどきどき…。 (ま、まさか…、本多さんまで) 春樹は少々混乱していたが、やがてある結論を導き出した。 (直江君のやっていることって、もしかして“ふたまた”) 硬派、クール、ストイック、生真面目…、春樹が輪に対して抱いていたイメージがガラガラと崩壊した瞬間だった。 もちろん屋敷の陰に逃げ込まず、しばらく二人の様子を見ていればこれが誤解だとすぐに気付いたのに…。 ハル君てば不幸。
「よっ、と」 美亜子は左手を輪の膝の裏に当て、そのまま輪を横倒しにしたのである。 (?!) ようやく輪が美亜子の目的に気付いたときには、彼は強引にお姫様抱っこされてしまっていた。 要するに抱きしめられた、というのは輪の勝手な勘違いで、美亜子は単に輪を抱えようとしただけである。 変身した状態なので輪を持ち上げるくらいは余裕である。 「は? 馬鹿、やめろ、なにを…」 輪は狼狽したが、さすがに弱っているので抵抗らしい抵抗もできない。 「なにをって決まってるでしょ? あんたを温泉まで運ぶのよ。広奈はそのあと」 そう言いつつ美亜子はテクテクと温泉に向かって歩みを進める。 大の男を抱えているとは思えない、余裕の足取り。 しかし輪はさすがにこの状況をすんなり受け入れることなど出来ない。 「おろせ、自分で歩く」 「やだ」 「やだじゃない、おろせ」 「やだ」 「………………」 輪は正直このシチュエーションは顔から火が出るくらい恥ずかしい。 更なる抗議をしようとした輪より先に、美亜子がぼそっとつぶやいた。 「あのさ、輪、さっきは悪かったわ、ごめん」 あっけに取られた輪が思わず美亜子の顔を凝視した。 こんなにあっさり謝罪の言葉が飛び出すとは予想外。 「なによ、なんか文句あるの」 照れ隠しなのか、美亜子はそう言って頬を膨らませた。 自分のやせ我慢はいったいなんだったんだ…。 そう思うと一気に輪の体から力が抜けていく。 「…いや、別に」 そしてすっかり意気消沈した輪は、結局温泉までお姫様抱っこのまま連行されることになる。 はっきり言って面目丸つぶれ、である。 ただまぁ、これで二人の間のわだかまりはあっさり消えていた。 腐れ縁の二人の仲が修復するには、この程度で十分だったわけである。
傷の痛みも和らぐし、なんだか気が楽になっていく。 「ふぅ〜、落ち着くなぁ〜」 とても16歳とは思えない、おっさんくさい呟きなど漏らしつつ、輪は俗世間の悩みを忘れて温泉でゆったりのんびり。 広奈とのことでえらい誤解を招き、生涯最大のピンチだったはずだが、そんなことは今の輪にとっては些細な問題に過ぎなかった。
自分がネタにされているとも知らず、まして乙姫に“ろりこん”、春樹には“ふたまた”と思われていることなどちっとも知らず、輪はひとり平和だった…。
まさに輪君女難の道、“女難ロードオブザ輪君”であった。 めでたくなし、めでたくなし。
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